ラズリの手が柔らかな焔色の髪をゆっくりと行き来している。そうしてしばらくの間、彼女はルークの頭を撫でていた。何と声をかけて良いのか分からなかったせいもあるが、何より彼女自身の頭の整理がまだ出来ていなかったからだ。
第七音素の集合体だというローレライの手によって、ルークの身体が女性化したことも聞いた。何でも〝大爆発〟という現象を防ぐために、被験者と完全同位体にならないようにしたとか。
それがどういったものなのかラズリには理解出来なかったし、まずローレライの存在自体がにわかには信じがたかったのだ。その存在のことをルークに聞くと、「聞かれても困る、俺だってよく分からないんだ」と返されて少し微笑まれた。
〝ルキア〟という名前は、〝ルーク・フォン・ファブレ〟の名前と場所を被験者に返すために、自分が付けた名前だと言う。
それを聞いたとき、ちくりとラズリの心が痛んだ。
本物ではなかったとはいえ、レプリカだと気付くまでは己は〝ルーク〟だと信じて生きていたのだろう。例え七年という短い期間でも、信じて、生きていた時間は彼自身――ルーク――のものだったのに。その記憶だけは、自分のものだと胸を張っても良いのに。この小さな子供のような存在は、それすら被験者に返すと言う。
それはあんまりではないか、とラズリは思う。
話で聞く限り、〝ルーク〟は信じていた名前と居場所が嘘だったと知っても、それでも精一杯そこで生き抜いた。しかし今はその名前と場所を被験者へ返し、〝ルキア〟と新たな名前を自身に付けることで、精一杯生き抜いた〝彼〟の人生を全てなかったことにしようとしている。
――この感情を何と言ったら良いのだろう。この感情はどこへ向けたら良いのだろう。
ぎゅっと寄った彼女の眉間に気付いたのか、その隣にいたかつての〝ルーク〟が笑って言う。
「良いんだ。これからは〝ルキア〟として生きるって決めたから。誰に強制されるわけでもない。導かれるわけでもない。この先は自分が思う通りに生きられる、それだけで嬉しいんだ。 ……例え皆に会えなくても、会わないと決めたのは他でもない〝俺自身〟だから」
表情は寂し気だったが、その声質はしっかりとしていた。
――会わないと決めた。
(私も……そう決意したことがある)
――あの優しい空間から、出て来るときに。
「……私も、ルキアに話さなければ――いいえ、話さなくてはならないことがあるの」
ラズリは撫でていた手を止め、その場で姿勢を正す。そうして「本当はもう少し早く話すべきだったのだけど」と切り出し、ルークと向かい合った。
「以前、私を匿って色々と教えてくれた人がいると言ったわね」
「うん、レプリカを匿ってくれるって、どんな人だろうと思ってたけど……。話してくれようとしてるのは、その人のことか?」
戸惑いがちに彼女を見るルークの目はどこまでも優しい。
「えぇ、その人は――」
――大丈夫。彼女になら、話せる。
「私の〝被験者〟なの」
決心して伝えられたラズリの言葉は、ルークにとって衝撃の事実だった。
被験者がレプリカを匿うという話はルークは今までに聞いたことがなかった。少なくともルークが知っている範囲では、被験者と仲が良いレプリカはいない。何故ならば、大抵のレプリカは被験者に疎まれているからだ。
何とか会話出来るようになったルークと彼――アッシュ――でさえ、レプリカ達には異質に映るであろうに。ラズリには、まったくそれがないという。
余りの事実に言葉が出ないルークに苦笑しながら、ラズリは話しを続ける。
それは彼女自身がまだ、レプリカだという事実に気が付いていなかった頃。レプリカだという理由で虐げられ、わけが分からぬまま逃亡生活を送っていたある日。
辺境にある街の路上でボロボロになって蹲《うずくま》っていたときに、自分とまったく同じ顔をした被験者に出会ったという。ラズリ自身もさすがにそのときは驚いた――その時点では感情というものを知らなかったため、表情には出ていなかったようだ――らしい。
今までの経験上、被害を加えられるかもしれないと思って急いで逃げようとしたらしいのだが、その被験者はレプリカである彼女を嫌悪するどころか、自宅に連れて帰って甲斐甲斐しく世話をしてくれたのだとか。さらにはその被験者から自身の名は〝ラピス〟だと伝えられ、自己紹介までされた。その際に名前がないことを伝えると〝ラズリ〟という名を与えられ、それ以降、ラピスから世界や生活について色々と教わったという。
日々過ごした中では、ラピスは決して彼女をレプリカ扱いすることはなく、あくまで個人として、まるで双子の妹のように扱ってくれたこと。そのお陰でラズリの自我が目覚め、感情を表に出し始めたこと。
そして自我が目覚めたことで周りのレプリカに対する偏見や、異質扱いされている被験者《ラピス》を見ていられずに、ある日荷物をまとめて黙ってその家を出て来たこと。
自分さえいなければ、ラピスは幸せになれるのだと信じて、決してもう戻るまいと、会うまいと心に決め、剣を取って各地を旅していたときにルークに出会った――ということだった。
ラズリの話を聞いていく内に、ルークの目からは知らず涙が流れていた。
初めて口にされる彼女の過去。
あまり話したくはなかっただろうに、それでも話してくれたことが嬉しい。何より、レプリカを〝個〟として扱ってくれる人がいるということが、ルークは嬉しかった。
――あぁ、世界はまだ、大丈夫。
たった一人でも良い。レプリカに対して偏見を持っていない人が一人でも存在するならば、まだ頑張れる。
「……どうして、あなたが泣くの……?」
「だって――っ、嬉しいんだ。そんな人もいるんだって、世界中の人からレプリカが嫌われてるわけじゃないってことが」
でも、今の彼女の状態はとても――寂しい。
「ラズは、ラピスと一緒に居たいって、思ってたんだろ? 一緒に生きていきたいって、今も、思ってるんだよな……っ」
それなのに、離れなければならなかった。そうさせてしまう世界が寂しいと、ルークは涙を流す。
そのとき、ぽろり、とラズリの瞳から頬へ一筋の線が零れた。
「……?」
不思議に思ったのか、彼女の手が頬へ向かう。その指先が僅かな水分で濡れた。
――これが、この感情が、〝泣く〟ということ。
「……あ……」
そう彼女が自覚した途端に、それは堰を切って溢れ出す。
――ぽろり。
――ぽろり。
「――っラズ、ラズっ!」
恐らく初めて涙を流したのだろう。呆然と静かに泣いているラズリを見ていられなくなり、ルークは彼女の身体を抱き締めた。
その暖かなぬくもりに優しかったあの場所を思い出したのか、ラズリの瞳からはさらに涙が流れていた。ルークもまた、陽だまりにいた頃の記憶と夜明け色の紅い髪を思い出して涙が溢れた。
――寂しい。悲しい。
――会いたくても会えない。でも、一緒にいたい。
――あの人の隣で笑っているのは、他の誰でもない自分でありたい。
窓の外に輝く白く丸い月が、泣いている二人を慰めるように、優しく辺りを照らし続けていた。