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第五章 Gloom 09
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第五章 Gloom 09




幾重にも重なった心。

問われるのは、罪。




 かつかつと靴音を響かせて、一人の男が前方へと進む。階段を降りていくと共に、辺りは暗くなっていく。
 石で作られた壁にはほのかな灯りを保っている譜石灯があり、ただでさえ周囲はカビ臭い匂いが漂っているというのに、それらが風に巻き上げられて男の整った鼻先を掠っていく。彼はその匂いに僅かに顔を顰めると、足を速めて目的とする場所へと向かった。
 幾重にも閉ざされた格子の先に見張りの兵士が二人。彼らは今だ大佐の地位に留まっている男――ジェイドを視界に捕らえると、背筋を伸ばして敬礼の形をとった。
「カーティス大佐」
「ご苦労」
 それに対してジェイドは軽く目配せをし、詳しい状況を聞いた。
「様子はどうだ?」
「はっ! 今のところ大人しくしているようです。しかし――」
 そこで言葉を濁した兵士に、彼は無言で続きを促す。
「どうもあの男が来てからというもの、急に周囲が静かになりまして……。何とも不気味です」
 そう言う兵士に「そうか」と、ジェイドはただ一言だけ返事を返した。
 神妙な声で「お気をつけ下さい」と言う兵士の前を通り過ぎると、再びジェイドの靴音が辺りに響き始める。
 普段であれば辺りから細々と彼の名を囁く声が聞こえるのだが、今日はそれがない。それどころか、いつもより周囲の空気が冷たいように感じた。
――まるで何かに怯えているように。
 これもあの男が纏《まと》う特殊な雰囲気のせいだろうとジェイドは思う。
 男がいる牢屋の位置は、すでにジェイド自身も何度か足を運んでいるので覚えている。
 彼はそこへ向かいながら男に付けていた専門医の言葉を思い出していた。ジェイドがそれを聞いたときには、説明された内容をすぐに理解することは出来なかったが、どこか納得する部分があったのも事実だ。
 かつん、と靴音が止まる。ジェイドの足先は牢屋の真ん中に座っている男に向けられた。
「――モルダ・エスパシオ」
 ジェイドの目の前にいる男。以前から違和感を覚えていた男の行動をジェイドは思い浮かべる。
 アッシュの証言と専門医の診察結果、そしてこの男の現在の口調で全てが繋がった。
「大佐ほどの方が、何度も足を運んで下さるとは恐縮ですね。本日は〝私〟に何の御用で?」
 通信時のアッシュの証言では、モルダは自分のことを〝俺〟と呼んでいた、ということだった。しかし今この前にいる男は、自分のことを〝私〟と呼んでいる。
 最初の頃は『演技か?』と疑っていたが、そのあまりに不可解な行動に加えてちぐはぐな言葉遣い。それらからジェイドは一つの仮定を立てていた。
 そしてその結果がつい先程分かったのだ。彼に付けさせた専門医の得意分野は〝精神〟に関すること。
「あなたは――〝どの〟モルダですか?」
 その専門医の診断によると、彼はジェイドが予測していた通り、〝解離性同一障害〟の恐れがあるということだった。
 解離性同一障害とは、多重人格障害とも呼ばれる精神疾患の一つだ。解離――本来なら一人の人間が統合して持つべき精神機能がうまく統一されていない状態――が、繰り返し行われることにより自我の同一性が損なわれる疾患であるとされている。その対象者は繰り返し強い心的外傷を受けた場合などに、自我――主人格――を守るために自分とは違う誰か――交代人格――に成り代わり、それが終わると主人格へ戻るという。
 症状としては、二つ以上の複数の人格が存在すること。その人格達が対象者の肉体を入れ替わりながら支配をしていること。人格達の記憶は個々に存在しており、これにより強い記憶喪失を伴うこと――などが挙げられる。
「やはり、先日の検査はそれを調べるためでしたか」
 くく、とモルダが喉の奥で笑う。
「察しが良くて大変助かりますね」
「私は〝研究者〟ですから」
 静かに言われるモルダの言葉にジェイドは目を細める。
「では、あなたは解離性同一障害であることを否定しないと?」
「ただ、勘違いしないで頂きたい。あなた方が考えているそれと私達は〝違う〟。」
「――どういうことですか?」
 この男の言葉の意味が分からない。ジェイドは彼の発言する一言一句を聞き逃すまいと、耳を澄ませる。
「まず、我々は〝互いに記憶・知覚の共有はしている〟ということです」
「それでは――」
「えぇ。それぞれの人格が今起きている出来事を知っていますよ。――ただ一人を除いてね」
「それは〝主人格のモルダ〟ですか?」
 ジェイドが言った言葉に〝研究者〟だと答えた彼は口角を上げ、「いずれ分かることですし」と、彼の中にあるそれぞれの人格について話し始めた。
「私達の人格は合わせて三人。この身体の中に、〝研究者〟・〝復讐者〟・〝主人格〟がそれぞれ存在し、共存しています」
 すぐには信じがたい内容が、モルダの口から説明されていく。
 彼によると、通常の生活においては〝研究者〟が行い、場面に合わせて〝復讐者〟が顔を出す。それぞれの一人称は〝私〟と〝俺〟。二人の区別はそこでつけられるようだ。〝研究者〟は、レプリカだけでなく、ありとあらゆることに対しての研究欲を司る人格。〝復讐者〟は、クリス・サングレの死を悲しむあまり、レプリカに対して憎悪を抱いている人格だという。
(成る程、アジトに研究室と拷問室が相反するように存在していたのはそのためか)
 そういうことならば納得がいく。口ではレプリカ除去計画を実行すると言っておきながら、裏ではレプリカについて貪欲に研究していた彼の行動の全てに。
 しかしジェイドはここで、あることに気が付いた。
「――〝主人格〟は出て来ないのですか?」
「あれは、〝クリス・サングレ〟が持って行きました」
 ここでもまた、邪視を持った少女の名前が出る。彼によれば〝主人格〟はクリスやカルサを慈しんだ人格で、モルダ本来の人格だという。
 今の彼らを見る限りでは、男がレプリカを慈しむなどとジェイドには信じられそうにもない。『〝主人格〟は持って行かれた』という意味は分からないが、少なくともその人格がこの場にいないということだけは分かった。
「あなた達とクリス・サングレとの関係。それと、ここに至るまでの経緯を話してくれますか?」
「嫌だ。どうしてお前なんかに〝俺〟達のことを話さなければならない!」
 急に彼の表情と口調が憎悪のそれへと変わり、一人称が〝俺〟となった。
(なるほど、これが〝復讐者〟か)
 そして怒りの言葉を吐き終わったあとは、あっという間に彼の表情が元の〝研究者〟へと戻る。
 その一部始終は事情を知っているジェイドだからこそ、彼らの変わり様を冷静に見ることが出来た。だがそれを知らない第三者が見れば、さぞかし異様な光景であったことだろう。
「ご覧のように〝復讐者〟はこう言っていますが……。まぁ、話さなければいつまで経ってもこのままでしょうしね。私がお話ししましょう」
 そうして話し始めようとしている彼を冷静に見詰めながら、ジェイドはそれぞれの人格について分析を始める。
〝研究者〟の第一印象は、〝自己欲に対して忠実〟。自身の研究欲には知識や能力を思う存分発揮するが、その他のことに関してはあまり興味がないようだ。行動だけ見ると黄緑色の少年に似ているが、少なくともあの少年には思いやりという感情がある。彼には一切それが見受けられない。
 対して〝復讐者〟については逆だ。〝レプリカに対しての嫌悪〟と〝周囲に対しての不信感〟を露にしている。しかし、どちらの人格にも共通して言えることがある。
 それは、レプリカを物のように扱っているということと、人間として大事な何かが欠けているということだった。
 ひょっとしたら、これらの欠けている全てを〝主人格〟が持っているのかもしれない。
「ただ、私達は〝作られて〟から日が浅い。記憶を辿ろうにも〝主人格〟が閉じられているので、話す内容に限りがありますが」
「――作られた?」
「えぇ。こうなるように、クリス・サングレから暗示を受けていたのです。彼女は偉大かつ恐ろしい能力者ですよ。彼女亡きあとも、こうしてそれが続いているのですから」
 彼はクリスを称えたあと、二人の人格の中で一番古い記憶から説明を始めた。
 まず初めに、モルダの中で目が覚めたのは〝研究者〟だったらしい。彼が言うには、そのときすでに目の前にはクリス・サングレが息絶える寸前で横たわっていたという。
「彼女がどういった理由で私達を作ったのかは分かりかねますが、その能力で私達が作られたということだけは確かです」
 息も絶え絶えな彼女の右目が、鮮やかな深紅を放っていたのを覚えていると〝研究者〟は言う。
「――つまり、彼女の暗示というのは〝主人格とは別の人格を作るように〟というものだと?」
「さぁそこまでは。しかし実際私は〝復讐者〟が作られていくのも感じましたし、人格が混濁している時期もありました。そのことから彼女が死ぬ間際――もしくはそれ以前に、主人格のモルダに対して何らかの暗示がかけられていたと考えています」
「それを知っているのはクリス・サングレのみ、ですか」
 ジェイドの問いかけに〝研究者〟は頷いただけだった。
 彼が次に気付いたときにはすでに、カルサというレプリカと共に行動するようになっていたとか。その際に〝研究者〟と〝復讐者〟の人格が確立され、しばらくは三人の人格が混濁している状態になったようだ。しかし頭の中で混ざり合っていく内に〝研究者〟と〝復讐者〟は共存するようになり、〝主人格〟は外界を遮断し、現在も意識の奥で眠っているらしい。
「彼女のレプリカである〝カルサ〟という少女はどこへ?」
「あぁ……アレは〝復讐者〟がレプリカルークの目の前で消しました。『どの道、音素乖離を起こして消える運命だったんだ』と、彼は言っていますが」
――クリス・サングレのレプリカを、消した。
(よりによってあの子の前で、か――)
 だとすれば、あの子は相当深く傷付いているはず。今もきっと魘されているのだろう、とジェイドの胸が少し痛んだ。
 そして、もう一つ聞いておかなければならないことがある。
 それはレムの塔にいる、恐らくは彼に消されたカルサのレプリカであろう少女――シリカのことだ。
「カルサのレプリカを作ったのは、あなたですか?」
「それを知っているということは、アレは消えていないのですね」
 彼が言うには、レプリカのレプリカを作ったのは純粋な研究心と気まぐれによるものだったらしい。だが出来上がったレプリカの音素振動数は不安定で、邪視としての能力も失っていたため、カルサに破棄しておけと命じていたようだ。
 それを聞いたジェイドの胸の奥に淀むものがあったが、努めて平静を装う。
 この男が持つ情報は粗方聞き出せた。これ以上話していても混乱するばかりだろうとジェイドはこれまでの話をまとめた。
「では、今回の騒動は〝研究者〟であるあなたと〝復讐者〟の二つの人格が共謀して起こしたことであり、〝主人格〟はこの件に関して一切関知していないということですね?」
「えぇ」
 彼は意外と素直に頷いた。
「となると――処分は先延ばしになりそうですね」
 やれやれ、とジェイドは溜息をつく。その後、彼が「何故だ」と聞いて来たため、ジェイドは言い聞かせるように説明した。
「良いですか?『自分の中には三つの人格があって、今回の騒動はその内の二つの人格が引き起こしたことです』と公の場で説明したところで、一体誰が納得してくれるというのです? 処分はあなたのその症状が改善されたとき、あなた方の人格が一つになったときにしかるべき判断をします」
 解離性同一障害の治療方法としては二つ。
 日常生活において支障のない程度の人格にまとめるか、全ての人格を統合するかのどちらかだ。今までの彼の状況から考えれば、後者の治療をする方が望ましい。
「まずは人格を一つに統合するよう、治療を始めてもらいます」
 ジェイドがそう言うと、くつくつと彼が笑った。
「無駄だと思いますよ? 私達の症状は確かにそれによく似ていますが、具体的には当てはまらない。私達はクリス・サングレの暗示効果の〝産物〟ですからね」
「――では、その暗示を解けば元に戻ると?」
 しかしそれを解こうにも、暗示をかけた人物はすでに亡い上に、邪視能力を保有していたレプリカも消えてしまったとあらば、他にどんな方法があるというのだろう。
「可能性としては、この暗示効果を上回るほどのショックか――あるいは〝主人格〟を揺り起こすほどの〝何か〟があれば、解けるかもしれませんね」
 それを聞いてジェイドは驚く。
「何故、あなたはそこまで詳しく話してくれるのですか?」
「さぁ、何故でしょうね。自分でも良く分かりません。ひょっとしたら心の隅に、〝元の自分に戻りたい〟という気持ちがあるのかもしれませんね」
〝研究者〟は呟くようにそう言うと、どこか遠くを見るように薄く笑う。
 そのやりきれないような笑みは、先日までレプリカ除去計画を企てていた男だとは思えないほどの姿だった。



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