あなたが与えてくれたもの。
今度は私が与えましょう。
反レプリカ組織〝リア〟とモルダの処遇が話された後、今だ腑に落ちない顔をしたアッシュを他所に、
世界がレプリカ保護条約締結に向けて動いているという話がされる。
それを聞いたルークは良かったと顔を綻ばせながら、同時に「これからが大変だな」と言って苦笑した。
仲間達はそれを複雑な思いで見守っている。
――ルークと共に行動したい。
それはきっと、本人も願っていることだろうけれど。
しかし〝ルーク〟としての記憶を失い、一時的とはいえ視力を失ってしまった今では外交はおろか、
ここから連れ出すことすら危ぶまれる。
――歯がゆい。
何より一番歯がゆいのは、どうすることも出来ない己自身だとそれぞれが苦悩に沈む。
だからせめてルークの記憶が戻った時、またあの笑顔を見る為にと、彼らは精一杯動いているのだ。
ラズリは、そっと周囲を見渡した。
誰が何を考えているのかはその表情で何となく分かる。
ゆっくりと巡らせていた視線は、恐らくこの中で一番混乱の胸中にいるであろうアッシュの上で止まる。
だが彼女の予測とは裏腹に、それぞれが複雑な表情をしている中で彼だけは表情が変わっていなかった。
相変わらずその眉間に皺は寄っているけれど。
ラズリはそこから視線を落とし、口元に笑みを浮かべる。
ひょっとしたら、彼だけが〝解って〟いるのかもしれない。
そう思った時にふと、彼女の視界の隅にルークの手が映った。
そこでラズリはあることに気付く。
見間違いかと思い、一旦気付かれないように視線をはずしてもう一度確認をしてみる。
(……気の所為……ではないわね……)
ルークの手は、身体にかけられているブランケットを握り込んでいた。
周りはまだ気付いていない。
ルークの握り込んでいるその手が、僅かに震えていることに。
それを見たラズリは、何故だかそれがルークから発せられる救難信号のように思え、
蒼い髪を揺らしてジェイドを振り返ると、彼を呼んだ。
「大佐」
そのしっかりとした呼びかけに対して、それに気付いたジェイドが「何でしょう?」と返して来る。
「私、ここに残ります」
はっきりとした口調で言われた言葉に、ルークが驚いた表情をする。
驚いたのは彼女だけではない。
その場にいた全員が驚いていた。
「ラズ!?」
「残って、彼女の……ルキアの記憶が戻るまで、傍に居ます」
声を頼りにルークがラズリの方を向き直り、慌てて言う。
「俺、一人でも大丈夫だし! ラズがここに残ることなんてないよ!」
「ルキア。〝俺〟はやめなさいって何度言ったら……」
「分かるの?」と言いながら、ラズリは軽く彼女の額を小突いた。
唐突にやられた仕草に、ルークは一瞬動きを止める。
「うっ……、いやその……ってそんなこと言ってる場合じゃないっつーの!
ラズだってあっちでやることあるんだろ? 俺の傍に居るより……!」
「ルキア」
ラズリが優しくルークのもう一つの名前を呼んだ後、こつん、と小さく音が聞こえる。
ルークの額に彼女の額が当てられたのだ。
その仕草は、二人で旅をしていた時からの習慣なのかもしれない。
仲間達はラズリの行動に目を見開いたが、大人しく二人の様子をじっと見守っている。
額を合わせる二人の姿は、まるで我儘を言う子供を諌める母親のように思えたからだ。
――ちくり
周囲と同じようにそれを見ていたアッシュの心に、小さな針が刺さる。
(……ちっ……)
痛みと同時に今まで塞ぎ込まれていた何かが、じわじわと滲み出て来る感覚。
それはアッシュが知らない内に築かれた、ルークとラズリの絆への嫉妬によるものであったが、
当の本人はまだその答えには行き着いていない。
彼が疼く胸に手をやり、痛みの原因を考えている間にもラズリの声が響く。
「レプリカの街を建設することも大事、レプリカを保護しようと動く世界ももちろん大事よ?
でも、あなたのことは誰が守るの?」
そっと、小さく震えるルークの手の上に、ラズリの手が重ねられた。
「っ……!」
彼女が言わんとしていることに気付いたルークは息を呑む。
互いの額から伝わる温もり。
重ねた手から伝わる震え。
ラズリはそれを取り除いてあげたいと思う。
かつて、ルークが彼女の迷いを晴らしてくれた時のように。
しかし、ラズリはそれを口に出すことはあえてしない。
何故ならば彼女には、今まで一緒に旅をしたことでルークの性格は完全に読めていたからだ。
「ねぇ、ルキア。私はあなたに助けられた。そして私に、沢山のことを教えてくれたわ。
あなたのお陰でラピスと再会して、一緒に居られるようにもなった」
優しく、諭すように紡がれる言葉。
「だから今、その恩返しをさせて頂戴? あなたが私に与えてくれたことを、今度は私が返したいの」
「ラズ……」
「でも……」とまだ渋るルークに、さらに念を押すように彼女が言う。
「皆もあなたを大切に思ってる。あなたが一刻も早く回復することを祈っている。願っているわ。
あなたはそれに答えなきゃいけない。そうでしょう?」
「……うん」
「レプリカの街は、アンバー達が頑張ってくれている。保護条約のことは、大佐や他の皆が頑張ってくれている。
ラピスも、早くあなたに会ってお礼を言いたいって言っていたわ」
閉じられていたラズリの瞳が開き、合わされていた額がゆっくりと離れていく。
視線が落とされ、金と焔の瞳が交わった。
その焔が金を捉えることはなかったけれど。
「だから今、あなたがするべきことは分かるわね?」
「うん、分かる」
ようやく納得したようにルークが神妙に頷いた。
それを見たラズリはほっと息をつく。
辺りに微妙な空気が漂う中、二人の会話が落ち着いた所でジェイドが口を開いた。
「やれやれ。そこまで言われてしまっては、強引に連れて帰る訳にもいかなくなりましたねぇ」
そう言って溜息をつきながら肩をすくめる仕草をする。
仕方がない、という風な態度をとっているが、恐らく彼にはラズリがそうするであろうということが分かっていたのだろう。
現にその表情は真剣に引き止めようとするそれではない。
「分かりました。あなたがここに残ることは良いとしましょう。……ただ、ラピスは半泣き状態になるかもしれませんがね」
くい、と眼鏡のブリッジを押し上げながら、ジェイドが笑って言う。
ラズリはレムの塔で待つ片割れのことを思うと心が少し軋んだが、
それよりも今のルークを放っておけないという思いの方が勝っていた。
――今度会った時、大人しく泣き着かれよう。
ラズリは諦めにも似た決意を胸に留め、苦笑という形でジェイドに返す。
「それに全く知らない方に世話をされるよりも、身近な人に傍に居てもらった方が私達にとっても、
そしてルキアにとっても安心でしょうし」
「ねぇ皆さん?」と有無を言わさぬ勢いで目配せをすれば、そうだなとばかりに頷く面々。
反対する者はいない。
ジェイドの言っていることは正しいし、一緒に旅をしていたラズリなら……と思える部分もあったからだった。
それを見たラズリは「ありがとう」と心底嬉しそうに一同に礼を言った。
ジェイドがにっこりと口元に笑みを浮かべながら、ルークの方へと向きを変えて言う。
「……ルキア。モルダ達のことは私が陛下に言っておきましょう。ですからあなたは、自分の治療に専念なさい」
ジェイドが〝ルキア〟と若干強めに呼んだのは、
きっとこれからのことを不安に思っているルークを安心させる為だろう。
何だかんだ言いつつ、この軍人も彼女のことが心配なのだとラズリは微笑む。
さらに彼が「その方が私も安心して動けるというものです」と付け足すと、
それに後押しされるように仲間達も次々とルークに話しかけていく。
「そうだよー、ルキア! ちゃんと治してくれないとアニスちゃん泣いちゃうんだからあ。
それに旅してた時より背も伸びたんだよー!
早く視力回復させて、ちょっぴり大人になったアニスちゃんをたっぷり拝みなさい!」
旅をしていた時から比べると、色々な面で成長したのだろう。
以前と変わらず髪を二つに結んでいる少女が笑って言った。
「ルキア。体が女性になっても私達はあなたのこと受け入れているわ。
むしろ大歓迎よ。完全に回復したら、今度一緒に服を買いにいきましょうね」
ルークに淡い気持ちを抱いていた亜麻色の髪を持つ少女。
ルークが男性から女性になったことで、ティアのその気持ちが報われることはなくなってしまったが、
その処遇に同情したのか、今はルークを温かく見守ることにしたようだ。
「そうですわルキア。今はどうか自分の体を第一に考えて、治療に専念なさって下さいませ。
それが私達にとって、何より嬉しいことです。あ、ティアと買い物に行く時は、ぜひ私も呼んで下さいましね」
キムラスカランバルディア王国の王女であり、〝ルーク〟の婚約者でもあったナタリア。
アッシュのレプリカであったとはいえ、ルークの数少ない幼馴染のうちの一人。
ルークとは対等に、というよりも姉のような視点から接していた。
彼女を気遣う口調から、きっと今もそれは変わっていないのだろう。
「本当はこんな形で再会したくなかったんだけどな……、ルキア。
ちらほら思い出せるんならそれで良いから、これからのこととかいっぱい話そうな?」
かつてはファブレ公爵家に仕える奉公人だった、ルークの兄貴分兼親友の青年。
復讐者という立場から救い出してくれたルークを、いつも気にかけていた。
ルークがレプリカだと知った時も、彼は変わらずいつもルークの傍にいた。
――いつも、いつも知らない内に助けられていた。
仲間達全員が少し寂し気なルークを元気付けようと話しかけていくものの、
やはり〝ルキア〟という名前にまだ慣れないのか、それぞれが違和感を持っていることが分かる。
そうとは知らないルークは、周りから聞こえて来る励ましの声に泣きそうな顔で笑っていた。
「うん。……やっぱ見えないのは不便だしな! 記憶も早く戻るように、ちょっとずつ思い出すように俺、頑張るよ!」
「皆、ありがとう」と涙を浮かべた顔で微笑んだ。
ルークと呼べないことに寂しさを感じたが、それでもここに居てくれてよかったと仲間達は思う。
今はルークと呼べなくとも、いずれはまた以前のように呼べる日が来るのだ。
その日を待つしかないと、仲間達は気を取り直した。
アッシュは、その様子を何も言わずにただ見詰めていた。
目の前で焔色の瞳が微笑んでいる。
同じ人物で同じ笑顔のはずなのに、違う人物に見えるのは何故だろうと、彼は不思議に思う。
(〝ルーク〟ではないから……、か……)
きっとそうだ。あれはまた、自分から隠れてしまった。
それを裏付けるように、あの焔の髪色は瞳の中に収まっている。
絶対に取り戻すと固く誓ったのは良いが、今度は一体どこを探せば良いというのだろう。
行き着く先のない想いにアッシュはふ、と息をつく。
――〝ルキア〟。
彼は、その名を呼ぶことはきっと出来ないと思っていた。
――捜し求めている名でなければ。
――〝ルーク〟でなければ。
しかし、今目の前にいる人物も確かにルークで。
その片鱗が、その面影が、ちらほら見え隠れしているのも分かる。
そしてそれを逃すまいとする自分がいることも確かだ、とアッシュは戸惑う。
――どうすれば良い?
――どうしたら良い?
ルークを取り戻したい。
その願いは確固たるものとして彼の胸の内に存在する願いだった。
だが彼自身、自分がどうしたいのかがまったく分からず、今一歩を踏み出せずに居た。
現時点で彼が一つだけ分かっていることは――
(……傍に居たい)
ただそれだけだった。
(……俺は……)
アッシュの眉が苦しそうに顰められたその時。
今までずっと打ち消されていた気配が急速に湧き上がる。
それと同時に聞こえるあの、音。
――……リィン――
いつも思うことだが、どうしていつも人が悩んでいる時に限ってこいつは出て来るのだろうか。
思わず出そうになった溜息を堪え、アッシュは周りに気付かれないように細心の注意を払いながら、
静かにフォンスロットを開いた。
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