理由なんてどうでも良い。
必要なのはこの想い一つ。
ただそれだけで良い。
――コンコン
「……俺だ。少し良いか?」
控え目に鳴らしたノックの音を、アッシュはどこか遠くに聞きながら声をかけた。
すると部屋の中からは驚いたような声が返って来る。
「っ……アッシュ!? うん、良いよ入って?」
ルークは若干戸惑ったようだが、その後すぐ了承の返事が返って来たことにアッシュは安堵した。
突如沸いたその感情に、彼の中で「何故、どうして」と問う声が響く。
結局その声が止まないまま扉を開けようと手を伸ばすと、読み透かした様に扉が開いた。
その先には苦笑したラズリの顔が佇んでおり、アッシュはばつが悪そうに軽く会釈をすると、中へと足を踏み入れた。
ルークはベッドに腰を掛けた状態で彼の方角を向いていて、その表情には笑みが浮かんでいる。
「どうしたんだ? 皆と一緒に行ったんじゃなかったのか?」
アッシュはその問いかけに答えることなく、ゆっくりとルークの元へ歩み寄る。
それは先程、扉の前で盗み聞いた内容の真偽を確かめる為だった。
段々と彼がルークに近付いて行くにつれ、その身体がびくりと震えたのがアッシュの視界に映った。
そして彼の手がルークへ届く程の距離に達した時、ルークはぐっと何かに耐えるように両腕を抱え込む。
それを見たアッシュはその仕草に胸を痛める。
よく見ると押さえ込まれた身体は細かく震えており、
視線を上げると表情はいつもの困ったようなそれになっているが、顔色は悪くない。
だから余計に、その状況はとてもおかしく思えた。
――何故、今まで気付かなかったのか。
そういえばベッドに横たわっていた時は、身体の大部分をブランケットで覆っていたことをアッシュは思い出す。
それに常にルークに集中していた訳ではないし、本人も必死で隠していたのだろう。
しかし、これでルークがアッシュに対して恐れを抱いているということは確定した。
例えそれが彼に限らず、他の男性に対してもそうなると解っていても。
――ぎゅっと締め付けられるようなあの感覚。
「……大丈夫なのか?」
アッシュはそれを振り払うかのように、今は見えていない焔色の瞳を見詰めながら聞いた。
「あ……先の会話、聞こえちゃったか。うん、大丈夫。身体は震えるけど、頭ん中じゃ危なくないって分かってるしさ」
彼の声を追いかけるように顔を上げ、心配をかけさせまいと笑うルークの仕草は、
記憶を失っているとは思えない程以前と変わらないというのに。
「それより……何か用事があるんじゃないのか?」
ルークは首を傾げ、その大きな目をぱちりと瞬かせながら聞いて来た。
そこでアッシュは改めて気付く。
正直、特別な用事があってここに来た訳ではない。
ただ二人の様子が気になって、ガイに言われるがままに足を運んだだけ。
当然、そういったことに素直でない彼はそれを口に出せるはずもなく。
「いや……ガイに様子を見て来いと頼まれただけだ」
結果的にガイに言われたことをそのまま返す形をとった。
「そっか」と言いながら納得したルークを横目に、アッシュは少し眉尻を下げる。
「……これから……どうするつもりだ?」
彼は二人の話を中断させてしまったことを少しだけ申し訳なく思いながら、それを取り繕うように今後のことを聞いた。
「これから、かぁ……」
恐らく察しの良いラズリは笑っていることだろう。
こんなことは二人の会話の邪魔してまで聞かなくとも、公然の場で堂々と聞けば良いこと。
アッシュが特別な用事もないのにここへ来たということは、
二人の様子が気になって仕方がないという事実を裏付けてしまったのだ。
予想通り、彼の後ろに控えている人物から含み笑いが聞こえて来る。
が、アッシュは聞こえない振りを決め込んでいるようだ。
幸いルークはそういったことに関してはとても鈍く出来ている(?)ので、
彼がどういった気持ちでここを訪ねて来たのかということよりも、彼の質問に答えようと一生懸命に考えているようだった。
「こんな状態じゃ旅も出来ない……よな。
レムの塔へ行っても……手伝いも出来そうにないし、逆に邪魔になるだけだろうし……」
ルークはそのまま「うーん」と唸りこむように頭を捻る。
何気なく聞いたそれに対してこんなに真剣に悩むとは思っていなかったアッシュは、
少し罪悪感を覚えながら改めて目の前で悩む人物を見下ろして思いに耽る。
(こんな状態になっても旅はしたいのか……)
いつからそんなに旅をすることが好きになったのだろうか。
確か出会った当初はそんなことはどうでも良いと、早く屋敷に帰りたそうな雰囲気さえ漂わせていたというのに。
機会があれば聞いてみたいとアッシュは思う。
それを聞くのは、ずいぶん先の話になるだろうけれど。
(それよりも)
彼は適当に聞いたその質問内容を、本格的に考えざるを得なくなって来たと思い直す。
もちろん、このままここ(ベルケンド)でラズリと二人で治療をすることに異を唱える訳ではない。
しかしルークには、仲間の他に待ってくれている人達が居ることを彼は知っていた。
憂えた顔が未だに拭えない両親。
彼とルークを含めて〝お坊ちゃま〟と呼び続ける執事。
何故かこうなった今でも、中庭で花を育て続けている庭師。
ルークと親しかった白光騎士団、メイド達、挙げればキリがない。
それらのことから〝精神的なショックから来る失明ならば、
ここでなくとも治療が出来るのではないか〟という考えがアッシュの中に過ぎる。
――そうすれば周囲の不安も少しは解消されるのではないか。
そんな急いた気持ちが、彼の口をこじ開けさせた。
「……療養もかねて、その……バチカルへ戻る気はないのか?」
『しまった、これではあまりに唐突過ぎる』と、彼は最後まで言ってしまってから気付く。
思わず口元を手で隠したが時すでに遅く、後ろでラズリが目を大きく見開いた状態で彼を凝視していた。
(その後すぐ、その目は細い弧を描いたが)
アッシュは頬に熱が集まるのを感じながらラズリを睨んでみたが、顔を赤くした状態では効果がない。
ラズリは彼と目が合うと、笑いを堪えるようにそれから目を逸らした。
アッシュの視界の隅に細かく震える肩が見えたが、ここで怒鳴っても仕方がない。
それにしても。
(……皮肉なものだ)
――以前ルークに言われた言葉を、まさか今度は自分が言うことになろうとは。
当時の苦い思い出を振り返ってしまい、アッシュは苦虫を噛みつぶしたような顔になる。
同時にずるい、と思う。
こうしてあの屋敷にいる者達を出汁にとり、
目の前で身体の震えに耐えているこの存在を己の手元に置こうとしている。
――ルークのもう一つの居場所へ。
たった七年という短い期間ではあったが、世界を、被験者の存在を、何も知らない状態で育てられた場所。
ルークは「奪ってしまった」と嘆きながら、それでも「自分の居場所だ」と叫んでいた。
そして今では、ルークにとってかけがえのない陽だまりの一つとなっている場所。
だがそれは目の前にいる人物が〝ルーク〟であった時の話だということを、アッシュはすっかり失念していた。
「バチカル? 何で?」
ルークの口から出た言葉に彼の思考が停止する。
そして、彼女に言われたことをもう一度頭の中でゆっくりと反芻した。
――あぁ、そういえば。
〝ルーク〟としての記憶が失われているということは。
つまりはそういうことだ。
――あの陽だまりに居たのは自分だということを、覚えていない。
その時の衝撃を何と言ったら良いのだろう。
ルークから出された答えを必死で処理している所為か、アッシュは直立不動の姿勢で固まってしまった。
見る見る内に背中に暗雲を背負い始めた彼に、その後ろに控えていたラズリは哀れみと同情の視線を送る。
彼女からは先程の笑いの衝動など、当に消え失せていた。
アッシュのルークに対する思いは、彼女がここへ来るまでに仲間達から充分過ぎる程聞いていた。
また、聡い彼女が見ても(誰が見ても)その行動は分かり易く。
そしてそれは、ルークにも同じことが言えるのだ。
ラズリ自身、ルークからアッシュについての話は何度か耳にしていた。
彼の話になるとその表情は劇的に明るくなり、さらには頬を赤らめるのだ。
その話し振りや表情から、ルークもまた、アッシュに対して同じような想いを抱えていることは間違いない。
二人の気持ちは互いの方を向いている。
後はそれが交差し、重なり合うだけ。
ラズリはそんな二人を微笑ましく思い、余計な茶々を入れないようにと決めたものの、
このままではあまりにアッシュが惨い。
彼が求めている人は、現時点では居ないに等しいのだ。
いよいよ本格的に落ち込み始めた(傍目からは見えないが)アッシュに、ラズリは助け舟を出すつもりで問いかける。
「アッシュ……バチカルであろうとどこであろうと、今の状態のルキアを外に出すのは危険だと思うわ。
それよりはここで治療を進めた方が良いんじゃないかしら?」
ラズリの言葉に、アッシュはようやく飛ばしていた意識を取り戻す。
そして彼女の当たり障りのないその言い方に静かに溜息をついた。
同時に、心の中でここで落ち込む訳にはいかないと気合を入れる。
「……そのようだな。お前はそれで良いのか?」
彼は己の眉間に皺が増え始めそうになるのを指で解しつつ、ルークに向かって同意を促す。
「あ……うん。皆に迷惑かけるのは嫌だし……」
地味にショックを受けた所為か、アッシュの声色が沈んでいたのに気付いたらしい。
ルークが少々戸惑い気味に頷いた。
――これで己の近くに置く手段は絶たれてしまった。
アッシュは両手で身体を抱き込んで独り、震えに耐えるルークの姿を黙ったまま見詰める。
――それでも……傍にいたい。
その時、アッシュの心の奥底から小さな声が聞こえた。
しかし彼は、それを覆い隠すようにゆっくりと蓋をする。
〝救出するのが遅れた、せめてもの償いなのだ〟と理由をこじ付けて。
(……男性恐怖症、か。せめて身体の震えだけでも取れれば……)
と、そこまで考えてアッシュの脳裏にある考えが浮かぶ。
ルークは仲間達を嫌っては居ないし、話したいとも思っている。
しかし身体が無意識に怖がってしまうので、現状ではそれが難しい。
それに外に出ようにも、視界ゼロの状態では〝誰か〟の助力が必要で。
助力といえど、ルークの性格上いつまでも女性に頼るということは出来ないはず。
それにいつか記憶が戻った時、男性と接することが出来ませんという訳にもいかないだろう。
ならば少しずつ〝慣らして〟いくしかない。
その為には〝男〟が必要で。
しかもそれは、〝ルークが気軽に接することの出来る人物〟でなければならない。
その結論に至った時、彼の表情にふ、と笑みが浮かんだ。
同時に、ここまでの考えが一瞬で出来たことに彼は苦笑を感じる。
こうやって瞬時に考えられる能力は他事に生かすべきだとアッシュは思う。
きっとあの軍人も、あの嫌味ったらしい笑顔で同じようなことを彼に言うことだろう。
――何故、自分はこんなにも必死になってここに残ろうとするのか。
――何故、奥底にある想いを必死に隠そうとするのか。
本当に贖罪なのか。
それとも保護欲なのか。
現状に対する同情か。
今はまだ、それらの答えを出すことは出来ない。
しかしアッシュは、その答えがルークの傍にいることで分かりそうな気がしていた。
――だから。
「……分かった。ならば、俺もここに残る」
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