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第七章 Trigger 01
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第七章 Trigger 01

 
 
 
少しずつ、少しずつ。 
 
開いた距離を縮めてみようか。 
 
 
 
 
ジェイド達がベルケンドを去って一週間が経とうとしていた。 
 
――以前は当たり前だったことが、出来なくなった。 
 
ルークにとってそれはとても不便なことではあったが、やはり辛いとも悲しいとも思わない自身を不思議に思っていた。
辛いであろう記憶から何も感じることが出来ないのは、シュウが言っていた『精神的なもの』の所為なのだろうか。 
 
ルークは現在「自分に出来ることから」と、ラズリに頼んで部屋の間取りを教えてもらっている最中であった。
「まずはこの部屋に慣れないと!」と意気込んでいるようだが、やはり見えないことは怖いのだろう。
幾度も躓きかける自身に、日頃どれだけ己の視力に頼っていたのかということを嫌という程痛感させられていた。
 
「ベッドから窓までが三歩。そっから左手の方を向いて一、二、三……」 
 
ルークの手があちこちを触りながら、少しずつ何がどこにあるかを認識していく。
彼女のサポート役であるラズリは、いつでもルークを支えられるような場所に立ち、
彼女が触れた物は何なのかをその都度教えてやっている。
 
だが、ルークは伝わって来る触感や音、全てのものに対して神経を集中しようとしているが、
いまいちそれが上手くいっていないように見える。
どうやらその原因は、先日アッシュから言われた言葉にあるようだ。
 
そして同時刻。
奮闘している二人がいる部屋へと向かうアッシュもまた、ルークと同じことを考えていた。 
 
 
 
二人の頭を悩ませているのは、仲間達がベルケンドを発った後のこと。
部屋に戻ったアッシュから、彼らからの伝言も踏まえて今後の説明がされていた時だった。 
 
「――という訳だ。ラズリはお前の部屋の隣で寝泊りできるよう頼んでおいた。
俺は近くの宿に部屋を用意してもらってある」 
 
本来ならアッシュも研究施設に身を寄せたいと思っていたようだが、施設の広さにも限度がある。 
それに彼がいることで研究施設の職員達にも気を使わせてしまうかもしれない。
(何しろ彼はキムラスカ王国の王族であるファブレ公爵の嫡男であるからだ)
幸い、宿が研究施設からそう遠くはない位置にあった為、
彼は店主に事情を話して〝ルークの治療が終るまで〟という約束で自身の部屋を確保した。
 
「食事は慣れるまでラズリに手伝ってもらえ。これから俺は一日に何時間かをお前の傍で過ごす。 
シュウによれば少しずつ接する時間を増やしていくことで身体が慣れて、
震えが止まるかもしれないと言っていたからな」 
 
ベッドに座っているルークは、大人しくアッシュの言葉に頷いていた。 
が、やはり震えが止まらないのか、しっかりと身体を押さえ込んでいる。
彼の言葉に答えるその表情はとても明るいのに、身体は震えるという不可思議な状態に、アッシュは心を痛める。
 
 
――早く治れば良い、と思う。
 
――そして元のように、と願う。
 
 
「……最後に、あいつらからの伝言だ。『とにかく自分のことだけに集中して治療に励め』だとよ」 
 
「うん、分かった。ありがとな! アッシュ」 
 
そんなアッシュの心中をよそに、ルークは花も綻ぶような満面の笑みを浮かべた。 
それに絆され、彼の表情も自然と緩む。 
アッシュにしては珍しいその表情を、ルークの瞳に映すことが出来ないのが酷く惜しまれた。 
 
(ここに大佐達がいたら……、物凄くからかわれそうね) 
 
滅多に拝むことの出来ない彼の表情を見たラズリは、声に出さずにくすりと笑う。
仲間達がアッシュをからかう様子が、容易に想像出来たからだった。
 
「今日の所はこれで戻る。お前は明日に備えて休んでおけ」 
 
「なぁ……、アッシュ」 
 
伝えたいことを言い終わったアッシュが部屋を出ようとした時、それをルークの声が引き止めた。 
 
まだ聞きたいことがあるのかと振り返った彼の視線の先には、少し寂しそうな表情が鎮座している。 
その表情からルークが言わんとしていることを察したアッシュは、苦虫を噛み潰したような表情を見せた。 
 
「……何だ?」
 
「何で……〝俺の名前〟、呼んでくれないんだ?」 
 
呟くように言われた言葉が、彼の心に突き刺さる。 
 
「言って来るならそろそろだろうな」とアッシュはある程度の予測はしていたし、
彼自身、あからさま過ぎると思っていた節もある。
しかし、当然の結果だとも言えるその言葉が、そこまで深く刺さるとは思っていなかったようだ。
 
 
――名を呼ばない理由はある。 
 
――呼べない理由もある。 
 
 
しかし、それをこうしていざ聞かれてしまうとどう返せば良いのかが分からないようで、アッシュの身体は硬直した。
彼には、どう返してもルークを傷付けてしまうことが分かっていたからだ。
 
(……ちっ) 
 
返答に詰まり、そのまま黙り込んでしまったアッシュの答えを、ルークはひたすら待っていた。 
 
記憶を失っているルークにとって、名前を呼ばれるということは、
不安に思う自分を打ち消すことが出来る手段の一つとなっていたのだ。
 
ルーク自身、女性体となる前に名前があることはもう分かっている。 
その名前がとても大事なものだということも分かっている。(大事なものでないなら、頭痛など起こらないはずだ) 
 
それでも仲間達はルークを、彼女自身が付けた〝ルキア〟という名前で呼んでくれている。 
しかしアッシュだけが、未だにその名を呼んでくれない。
 
要は不安なのだ。
 
アッシュが彼女の名前を(ルキアと)呼ばないことで、
ルークの存在が空気のように扱われているような気持ちになるのだろう。
 
 
――まるで自分は、最初からそこには居ないというような。 
 
――ここに居てはいけない、と言われているような。 
 
 
いつまで経っても返ってこない答えを待つ内に、ルークはそこまで考えてしまい、そんなことはないと慌てて否定する。 
 
(だって……話しかけたら、ちゃんと答えてくれる。俺の言葉は、ちゃんと届いてる) 
 
 
――では、何故? 
 
――彼が自分を呼んでくれない理由が分からない。 
 
 
(やっぱり……俺がアッシュのこと、はっきりと覚えていないせいかな……) 
 
彼女の中には、仲間達と旅をした記憶は確かにある。 
(ただしどういった目的で、どういった終り方をしたのかはすっぱりと切り取られているが) 
笑い合い喜び合って、共に戦い共に悩んだことは「確実に覚えている」と胸を張って言える。 
 
だがアッシュについては。 
 
実はアッシュという名前以外、ほとんど彼についての記憶は残っていない。
まったく――という訳ではないが、ほんの少し会話をしている記憶があるだけ。 
しかもそのほとんどは、明らかに彼女に対して好意を持っていない表情ばかり。 
眉根を寄せて彼女に向けられていたそれらは、明らかに嫌悪や憎悪が含まれていた。 
 
ルークはぎゅっと衣服を掴む。 
不安が湧き上がり、下降した思考が彼女を包んでいく。
 
(やっぱり俺はアッシュに嫌われてるのかな……)
 
だから名前を呼んでくれないのかもしれない。 
だけど、それを目の前にいる彼の口から聞くまでは、その事実を信じたくはない。 
 
 
――だって、捕まっていた自分を助けに来てくれただろう? 
 
――あの時、名前を呼んでくれただろう? 
 
 
「俺のこと……嫌い、だから……か?」 
 
いつまで経っても答えを返してくれないアッシュに痺れを切らし、
ええいもうどうにでもなれと、ルークは思い切って聞いた。 
 
「……違う」 
 
しかし返って来たのは、意外にも否定の言葉で。
 
「じゃあ何で……!」 
 
何故己の名を呼ばないのかと、ルークは不安そうな表情でアッシュを問い詰める。
 
(……お前が、言うのか……) 
 
 
――〝ルーク〟ではなく、〝ルキア〟と呼べと? 
 
 
(そんなこと……) 
 
 
――出来る訳がない。 (呼びたいのはその名じゃない) 
 
――言える訳がない。 (呼んでいるのに、気付いていないのはお前の方だろう?) 
 
 
呼ばない理由はただ一つ。 
アッシュの目の前にいる彼女が、彼自身が追い求めている〝ルーク〟ではないからだ。 
 
確かに〝ルキア〟と名乗っている今の状態でも、〝ルーク〟には違いないだろう。
しかしアッシュは、〝ルキア〟とはどうしても呼びたくなかったのだ。 
 
――呼んでしまえば、あの朱髪の彼を否定することになりそうで。 
 
しかも、いくら〝ルーク〟の名を呼んでも、〝ルキア〟はそれを認識することは出来ない。 
かといって、正直に言ってしまえば彼女を傷付けてしまう。 
ただでさえ心身ともに傷付いているこの存在を、これ以上傷付かせる訳にはいかない。 
 
八方塞なこの状況が、アッシュの口を固く閉ざさせていた。 
 
 
――だから今は。 
 
 
「……記憶が戻って、目が見えるようになったら……呼んでやる」 
 
 
アッシュには、ただそう答える他なかった。


 
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HN:
ちおり
性別:
女性
自己紹介:
赤毛2人に愛を注ぐ日々。