失われた記憶の中には、
何が埋まっていたのだろう。
「『記憶が戻って、目が見えるようになったら』……か」
そう言い残して部屋からアッシュが立ち去った後、
ルークは後ろに控えていたラズリに「どういうことだろう」と聞いた。
しかし彼女からは、「願掛けでもしているのかしらね」と苦笑気味に返されただけ。
――本当にそうなんだろうか。
(やっぱり……、俺の〝もう一つの名前〟が……)
考えられる原因はそれしかないとルークは思う。
しかし過去に名乗っていたその名前を思い出そうとすると、例によってあの頭痛が押し寄せて来るのだ。
最初の頭痛からその後も、痛みに負けまいと何度か試したようだが、
あまりの激痛についに嫌気が差してしまったのか、今はそれも控えている。
(ま、考えてもしょうがない……か)
こういうものは無理に引き出さない方が良い。
こうなったら逆に開き直って、仲間達が言っていたように治療に専念することにしよう。
そうしている内に記憶も戻ることだろう。
ルークはそう思い直し、部屋の間取りを頭に叩き込む作業に戻った。
(どうやら、考え事が終ったみたいね……)
それをじっと見守っていたラズリはやれやれ、と肩をすくめた。
というのも、先程まで懸命に部屋の間取りを覚えようとしていたルークが、
ベッドサイドにある花瓶に手を付けたままぴくりとも動かなくなったのだ。
具合でも悪くしたのだろうかと慌てて駆け寄ったが、そうではないことに一先ず安堵する。
では一体どうしたのだろうかと気配を消したままそろりと様子を窺うと、
ルークは一点を見据えたまま考え事をしているようだった。
その表情から考えているのはこの間のことだろうと察し、
それならば邪魔をしない方が良いだろうと、ラズリは静かに待っていたのだ。
(アッシュも……、あの時はああ言うしかなかったのは分かるけど……)
――想っている人に名前を呼んでもらえないというのは、少し酷ではないだろうか。
ラズリがなかなか次のステップへと踏み出そうとしない二人に業を煮やし始めた時、
ようやく動きを止めていたルークが動き出したのだ。
さっぱりとしたその表情から、彼女なりの結論が出たに違いない。
(そうね。考えても仕方のないことだわ)
現在の状況下では呼べないというだけで、いずれは名前を呼ぶ日が絶対に来る。
ラズリはただそう信じて、今はルークのサポートをしようと視線を移した。
――それにしても。
危険でない限り手を差し伸べることはしないで置こうと決めている彼女の瞳が、僅かに細められる。
こんなことを考えることは、不謹慎であることは充分に理解していた。
しかし、一生懸命なルークが何度か躓[つまづ]きそうになり、用心深くそろそろと歩くその様は、
見ていてなかなかに可愛らしいのだ。
それはもし、この場に可愛いものが好きだという亜麻色の髪をした彼女がいたならば、
きっと普段はどこか冷たい印象を与えているその表情をあっという間に崩すだろうと思える程の。
「え……と、これはー……花瓶? ラズ、合ってるか?」
「えぇ合っているわ。落とさないようにね」
そんなラズリをよそに、ルークは順調に辺りを探っていた。
答えが合っていたことに「よっし!」と嬉しそうに頷くと、次の障害物へと取り掛かっていく。
五感の内の視覚が使えないというのなら、
それ以外の聴覚・触覚・味覚・嗅覚をフルに活用しなければならない。
神経を掌に集中し、少しの情報をも漏らさないように。
真剣そのものの表情で、ルークは辺りの気配に集中していく。
そうやって順調に物の名前の当て合いが進み、次に彼女の手に触れたのは壁にある突起物。
慎重に触っていくと、それは普段からよく使っている物だった。
「えーと……ドアノブ?」
「正解よ」
「あ、じゃあ、この辺が出入り口なのか」
そうして探っていた手がドアへと触れる頃には、頭の中には完璧に部屋の間取りが出来上がっていた。
ルークは最後の仕上げだとばかりに、扉を開けようとドアノブに手をかける。
そしてゆっくりとそれをまわし、手前に引いた。
――カチャリ
小さな音を立てながら扉が開く音がする。
しかしルークは、手探りでドアの感触を確かめることに集中していた所為で、
外の気配にまったく気が付いていなかった。
そしてそのまま外にいた〝ソレ〟に気付かない状態で開けられた隙間に手を伸ばし、そして――
――まふ
ルークは思い描いていたものと違う感触だったことに、戸惑うこととなる。
「ん?」
――何だろうか、これは。
ルークの考えが正しいのなら、扉を開けた先は外で、彼女の手は空を切るはずだった。
それなのにその手の先には何らかの感触がある。
――まふまふ
(しかも結構柔らかい……?)
首を傾げながら延々と触るルークの後ろで、答えが分かっているラズリがくすくすと笑うのが聞こえた。
「何がおかしいんだよラズ! ってかコレ何だ? 布? ……ぬいぐるみ?」
その瞬間、ついにラズリが声をあげて笑い始めた。
心底おかしくてたまらないといったそれに、ムッとしたルークが「何なんだよー!」と言って頬を膨らませている。
どうやら本当に解っていないらしい。
そのことに耐え切れなくなったのか、『ぬいぐるみ』と言われたことに腹を立てたのか。
ルークが先程から撫で回している〝ソレ〟がついに口を開いた。
「……ほう? もう触っても平気らしいな?」
「え?」
――一瞬の空白。
そう。
ぬいぐるみだと思って触っていた〝ソレ〟は、実はアッシュの服だったのだ。
そうなるとルークは彼が声をかけて来るまで、ひたすら彼の胸付近を撫でまわしていたことになる。
ルークの脳内で上から降って来た声と己の行動が結び付くと、彼女の頬から耳にかけてが、
あっという間に真っ赤に染まり上がっていった。
その頬の赤さは、見ていて見事だと思う程に。
「ぎゃっ! アッシュ!? ご、ごごごごごめ……!!」
ルークは一声叫び声をあげ、慌ててアッシュの胸に当てていた手を離した――と同時に、
思い出されたように身体が震え始める。
「あ……あれ?」
それを見たアッシュの眉が自然と顰められた。
あれから大分時間が経ち、もうルークに対して危害を及ぼす者はいないというのに、
まだ身体は覚えていると叫んでいるのか。
それを目の当たりにしたアッシュの胸が、ぎゅう、と締め付けられる。
しかしそれを気取られまいと、彼はわざとからかいを含んだ態度をとった。
「何だ。てっきり治ったのかと思って放っておいたんだが。
その分だと〝男だと認識した時点〟で震えが来るようだな」
「おま……! 居るなら居るって言えよ! 黙って立ってるとかずりぃぞ!」
ルークは彼の嫌味な言い草にふてくされながらも返して来る。
アッシュはとりあえずその反応が暗いものではないことに息をついた。
――そうやってふてくされたり、笑ったり、表情豊かな方が良い。
――正気を失っている時のような、あんな顔をされる、よりは。
何も言い返さないアッシュに満足したルークは、今度は後ろで笑い続けているラズリへと振り返った。
「ラズも! いつまでも笑ってんな! それにアッシュだと分かってて黙ってただろ!?」
「ごめんなさい。つい、ね。でも、そんな真っ赤な顔をして怒られても説得力はないわよ?」
ラズリが再び笑いを堪えながらそう言うと、ルークはぶちぶちと愚痴をこぼしながら、
両手を赤く染まった頬にあてて揉み解していた。
そこでふと、ルークはあることに気付く。
(あれ? でも俺、何でこんなに赤くなってんだ?)
元は男なのだから、アッシュ(男)に触っても、別にこんなに赤くなることはないはずだ。
現にガイやジェイドに触れた時はこんな風にはならなかったではないか、と微かに残る記憶を探る。
(……恥ずかしい……とか?)
――では、今も小刻みに打ち続けているこの動悸は?
――もっと触れていたいと思う、この微かな気持ちは?
これは明らかに〝好意〟と締めくくられるような感情ではない。
(って、待て待て待て! これじゃまるで……!)
途端、高鳴り始める鼓動。
(俺が、アッシュを、……好――)
「症状としては、身体が震えるだけか?」
「――っ!!」
その言葉に反応してルークの身体がびくりと震える。
頬に手を当てたまま飛ばしていた意識が、アッシュの声によって一気に覚醒したようだ。
「ああ、うん! そうみたいだ」
無理矢理引き戻された感覚に追い付けず、ルークは慌てて返事を返す。
幸い、震え続ける身体のお陰で彼女が今何を考えていたのかは、彼は気付いていないようだ。
(そんなこと……まさか……だって……! 確かに……アッシュに嫌われるのは嫌だなとは思うけどさ!
でも俺は元男で! アッシュも男で……!!)
ルークは心中で「落ち着け落ち着け」と言い聞かせながら、ただ必死で湧き出そうとする感情を押さえ込む。
頬を押さえたまま百面相を繰り返す彼女の隣で、それを知ってか知らずか、ラズリが話題を変えて来た。
「アッシュ。何か用事があるんじゃないの?」
「あぁ……あいつらから荷物が届いたんでな。持って来たんだが……」
「ティア達から!?」
『仲間達から』という言葉を聞いた途端、百面相をしていたルークはあっという間に消え去り、途端に表情が明るくなる。
アッシュはそんなルークに苦笑しながら「運び入れるから部屋の中に戻れ」と言うと、
ラズリがゆっくりとルークを部屋の中央へと誘導していく。
彼はそれを確認した後、届けられた荷物〝達〟を部屋へと入れるべく、扉を全開に開いた。
「……一つ、聞いても良いかしら?」
ラズリの視線はアッシュの後ろに控えている荷物〝達〟を見据えている。
「……一応聞いておこうか」
アッシュは溜息をつきながら、それらを部屋の中へと押し入れていく。
彼女が言わんとしていることが何となく分かるからであった。
「……〝台車に乗せなければならない程〟の、荷物の中身は一体何なのかしら?」
「開けてその目で確かめるんだな。しかもやっかいなことに、俺宛ての荷物もこの中に混ざっているようだ」
それを聞いたルークが「そんなにあるのか!?」と叫ぶ中、二人の視線が台車に乗せられたソレ達へ向けられた。
台車の上に山と積まれた荷物達は、ざっと数えても両手を軽く越えている。
あの女性三人組は、ここまで一体何を送り付けて来たのだろうか。
その余りの量の多さに頭を抱えそうになるが、このままここに置いて置く訳にはいかないと、
仕方なく二人が荷物の仕分けに取り掛かった。
ルークも見えないながらにその作業に混ざり、手探りで荷物の中身を確認する。
「これって……服……か? そういや帰り際にティア達が俺とラズの体触りまくっていったんだけど……。
あれってまさか……この為だったりする?」
「あぁ……。『お前達の服がそのままなのは忍びない』と言って、三人で見立てるとはりきっていたからな」
「えぇ!? そんなんされても俺見えないから意味ないと思うんだけど!」
ルークはあからさまに戸惑った顔をする。
その後ろでラズリは、箱の中から彼女達が見立てたという服を手に取り、一つの結論に辿り着いていた。
「……だからじゃない? 見えていたら、絶対着そうにないものを選んでる気がするもの」
ラズリが手に持っていたのは、通常の女性で言う所の〝可愛い〟とされる服だった。
所々にフリルが縁取られ、生地自体も柔らかな素材で作られており、
それは明らかにルークが好んで着そうにないものだった。
しかもよく見るとそれは、ラズリがルークと初めて出会った時にルークが着ていた服によく似ている。
(ローレライに半強制的に着せられていた服である)
「げぇ!? ……あー……でも、どうせティア達は着てるとこ見えないんだしな。……ま、良いか!
ラズ、邪魔にならないような服を適当に選んどいてくれよ」
それを聞いたアッシュは思わず口に出しそうになった「俺は見れるんだが」という言葉は飲み込んでおいた。
ここでそれを言ったら、ルークは頑なに着ることを拒むだろうから。
その後も荷物の整理は順調に進み、アッシュもようやく自分宛の荷物を見付けることが出来た。
しかし、三人から送られて来た大量の衣類はこのまま整理していても埒が明かないと判断し、
いくつかの箱は未開封のまま、とりあえず必要な物だけ取り出して邪魔にならない所に保管しておくことにした。
衣類の整理が一段落つき、アッシュが部屋を退室しようと腰を上げた時、
何かに気付いたように「あぁ、それと……」と切り出した。
ラズリはその先を促すような視線を彼に送り、ルークはその横で首を傾げていた。
アッシュはむしろこれを伝えることが目的でここに来たのだったが、
荷物騒動ですっかりその機会を失ってしまっていたのだ。
「近い内に一度、キムラスカに帰って来る」
そう言った瞬間、ルークの表情が一瞬強張ったのはきっと気の所為ではない。
PR