とても、大事な場所なのだろう?
欲しくないと言いながら、求めるように手を伸ばしているのだから。
かつん、と靴音を響かせながら港へと降り立つ。
確かめるように呼吸をすれば、懐かしい潮の香りは変わらずそこにあり、
見上げれば空へ届けとばかりに高くそびえる町並みがあった。
辺りには天空滑車の音が響き、街を守っている兵士からは己の帰郷の無事を喜ぶ声がかかる。
それらに一つ一つ頷くことで返事を返しながら、家へと続く道を急ぐ。
自分は今、両親にルークのことを報告する為に一時的にキムラスカ王国へと戻って来ていた。
やはりルークのことは自分の口から報告をしたかったし、
治療に付き添っている間の公務のことなども相談しようと思っていたからだ。
家の扉を開け、挨拶もそこそこに両親がいる部屋へと向かうと、
「おかえりなさい」と言う嬉しそうな母の声と共に、少し心配そうな表情をした父がいた。
二人の顔を見た自分は、再度気を引き締めて二人に向かい合うように立ち、ルークのことを話し始める。
「ある程度は定期連絡で存じているでしょうが……」
まず、現在のルークは大爆発現象を防ぐ為、ローレライの力によって女性体となっていること。
その後反(アンチ)レプリカ組織に拉致されたが、無事助け出されて現在はベルケンドで治療を受けていること。
しかし今回の事件に巻き込まれたことが原因で、視力とルークとしての記憶を一時的に失っている上に、
その他にも障害が出ていること。
「その他の障害というのは……一部の人間を除き、異性に対しての怯えと身体の震えが起こるようです」
何故そういう状態に陥ってしまったのかまでは、あえて説明しなかった。
それを言ってしまえば、この心優しい病弱な母親は倒れてしまうだろうから。
案の定、それを聞いた母親――シュザンヌは顔を青ざめさせ、
余程怖いことがあったのだろうともう一人の我が子を思い、嘆いている。
父親――クリムゾンの方はといえば、ルークの性別が変わっていることにも驚いているようだったが、
何よりもルークとしての記憶を失っているということにショックを受けたようだ。
「お前達のことや、私達のことも忘れているのか?」
「……私達のことはかろうじて名前ぐらいは覚えているようです。
旅のことも節々ではありますが、微かに記憶に残る程度で……。父上や母上のことは恐らく覚えていないでしょう。
彼……いや、彼女は自分の故郷がここであることすら、忘れているようでしたから」
「そうか……」
そう言ってクリムゾンは僅かに悲しそうな表情を見せる。
そんな父親の隣から、目を潤ませながらシュザンヌが自分に問いかけて来た。
「でもそれらは、治療を続ければいつかは取り戻すのでしょう?」
「シュウ医師はそう言っています。ただ、その為には長い時間をかけることになるでしょうが……」
「それなら良いのです。無事でいるならそれで……。
例え性別が変わっていても、記憶を失っていても、あの子があの子であることに変わりはないわ」
「ねぇ、あなた」とシュザンヌは同意を求めるようにクリムゾンに言う。
それに促されるように、公爵も静かに頷いた。
「……しかし、このままではこちらに戻っても支障が出ることは一目瞭然です」
ここで、自分もルークの治療のサポートに付きたいと申し出た。
国政に携わる者が何をと、反対されることは分かっている。
自分でも無茶なことを言っていると自覚している。
――本当に自分らしくない。
あの頃の自分であれば、ルークのことなど捨て置くぐらいの気持ちであっただろう。
しかし今では捨て置く所か、手元に置いておきたいとさえ思うようになってしまった。
だが、それを嫌だとは思わない。
視線は母親から父親へ。目を逸らすことなく、真っ直ぐに。
幼い頃はすぐに視線を逸らされたが、今はそれはない。
「……分かった。公務の方は気にするな。簡単な書類を随時回すようにする。お前はそれを処理するだけで良い」
そして同時に、変わったのは自分だけではないのだと知る。
公爵という立場を背負い、こと国政については厳格な態度を見せるクリムゾンから返って来た答えは、
意外にも承諾の言葉だった。
「今はただ、ルークが無事ここへ戻って来ることだけを願っている。治療の方は……頼む」
「父上……」
そんな父親の姿に、自分は驚きを隠せない。
見開いた目でよく見ると、強固な意思を込めた瞳の中に父親らしいそれを垣間見ることが出来た。
そして傍目にはいつもと変わらないように見えるが、若干翳りが見える。
それ程ルークのことを気にかけているのだろう。
そうしてちゃんと自分を、自分達を見てくれているのだということが分かり、それが純粋に嬉しいと思った。
「ありがとうございます」
口元に僅かな笑みを浮かべて自分は頭を下げる。
以前よりも疲労を感じさせる父親に、公務を一手に任せるのは些か気が引けるものがあったが、
全てを終えてここへと戻って来た時に精一杯務めることで返そうと、この際甘えておくことにした。
「アッシュ、あの子の傍にいて支えてあげて頂戴ね」
シュザンヌは、その瞳から零れる涙をすくいながら言った。
表情に若干寂しさを残しているが、心配する程ではない。
その証拠に、いつもの穏やかな笑みがその口元に戻っていた。
「あぁ、それと……」
ふと思い出したように、シュザンヌの視線が外へと向けられる。
そこはかつて、ルークが居た陽だまりの部屋がある中庭だった。
「ペールから花の植木鉢を一つ受け取っていって頂戴。
ルークがいつ戻って来ても良いようにと、いつも手入れをしてくれているのよ」
ペールは、あの旅が終っても本来の場所へと戻らず、変わらずこの屋敷の庭木を管理している。
以前「ガイの元へ戻らないのか」と聞いたことがあるが、「子供はいつか巣立つものですから」と笑って返された。
――『私ももう年ですからな。……過去のことは忘れてしまいました。
今はもはや、私めの小さなご主人……いや、〝友人〟を待っているただの庭師でございますよ』――
彼もまた、ルークの帰還を待ち望んでいるのだ。
自分では、過去に起こったことが原因で出来た彼らの傷を癒すことは出来なかった。
だが、あの朱い存在がいたからこそ、今の彼らがあるのだと思える。
――自分も含めて。
目を凝らして中庭を見ると、今日も彼は花壇の手入れをしているようだった。
「分かりました」とシュザンヌに言い、軽く会話を済ませて部屋を出ると、そのまま中庭へと足を向ける。
「お帰りなさいませ。アッシュ様」
ゆっくりと中庭に入る自分に気付いたペールは深々と頭を下げた後、
予めシュザンヌに言われていたのか、すぐさま小さな植木鉢を持って来た。
「本来ならば、植木の花は〝病が根付く〟といって見舞いには喜ばしいものではないのですが……」
そう言いながらペールは自分に植木鉢を渡す。
受け取ったそれを見ると、緑葉の中には膨らんだ蕾があちこちにあり、
すでに咲いている花の一つは鮮やかな赤い色をしていた。
「……何という花だ?」
「これは〝ゼラニウム〟といいます。
他にもピンクや白など色々な色があるのですが、その中でも特にルーク様はこの色を大変気に入っておりまして」
ペールは、その時のルークとのやりとりを静かに自分に話し始めた。
――……それは彼がこの狭い空間から一転、広大な外界へと旅立ち、世界中を走り回っていた時の話。
自分は彼がいつ帰って来ても良いようにと、いつものように花壇の世話をしていた。
そんな陽の当たる中庭に明るい声が響く。
『ペール!』
旅の途中で寄ったのだろう。
両親に顔を見せに来たのだろうか、それとも城に用事があるのだろうか。
何にせよこの国の象徴ともいえる赤髪を揺らしながら、
満面の笑顔を浮かべた少年が自分の名を呼びながら駆けて来た。
『ルーク様。私共のような者に話しかけて下さいますなとあれ程……』
『良いんだよ! 俺が好きで話しかけてるんだからさ』
それにしても不思議なものだ。
以前は憎むべき対象であったはずなのに、長い年月がそれを薄れさせたのか。
自分の中にはすでに憎悪はなく(確執がないといえば嘘になるが)、少なくともこの少年に対してだけはないと言える。
何しろ自分は、この若き友人の成長を幼い頃からずっと見守って来たのだから。
誘拐された後、記憶を失った状態でこの屋敷に戻って来た時、
その余りの変わり様に戸惑いを感じ得なかったが(彼は喋る所か歩くことすら忘れていたのだ!)、
今考えるとそれがあったからこそ現在があるのだと思えるようになった。
『今日も花の世話か?』
『ええ。それが仕事ですからな』
『見てても、良いかな?』
『構いませんよ』
笑ってそう言ってやると、彼は私の近くに座り込む。
実はこうやって彼が私の仕事の様子を見るのは初めてではない。
そう、あれは彼が日に日に言葉を覚えて、この屋敷の中を歩き回り始めた頃。
あの時から時々こうして隣に座り込んでは、自分と他愛もない話をし、時には花を愛でていた。
その優しさは以前と変わらないように思える。
『なぁ、ペール。俺が、もし……』
『……? 何ですかな?』
そんな明るい少年の顔に翳りがさす。
その寂し気な表情から何かあったのだろうと思い、先を促す。
『……ううん、何でもない! あ、これ確か……〝ゼラニウム〟だったっけ?』
しかし、言いかけた言葉を飲み込まれてしまった上に、さらりと話題を変えられてしまった。
(……また、一人で抱え込んでしまうおつもりか)
最近、この少年は全てを一人で背負おうとする節が見受けられた。
背負っているそれらは決して少年だけの所為ではないだろうに、
全て自分が悪いのだと、笑いながら奥底へと隠してしまうのだ。
しかし自分にはそれを聞く資格はない。
出来ることと言えば、彼の行く末を静かに見守ることと、彼が興味を持ったことに対して答えてあげることぐらいだった。
少年が手を伸ばした先には、赤い花をつけた植木鉢が一つ。
『俺、この色好きなんだよなー』
『……他の色ではなく、その色が……ですかな?』
『うん』
『何故だかお聞きしても?』
あまりにも嬉しそうに笑うものだから、自分もそれにつられてつい理由を聞いてしまった。
聞かない方が良かったかと後悔した自分に対して、少年は照れ臭そうに笑う。
『……〝ある人〟に似てるから、かな』
そう言って、今までに見たことのない笑顔で微笑んだのだ。……――
「――……私めにはそれが誰かは分かりかねますが、
その方はルーク様にとって大事な方なのだと思っております」
「……」
――これは自惚れだ。
――鮮やかなその赤が、自分の髪の色に似ている……などと。
「確かに記憶を失っている今では、この花を褒めたことなど覚えていないかもしれません。
ましてや、目が見えないとあらば折角の赤い色も見えないでしょう。
しかし私は、ルーク様の〝心〟までは変わらないと信じております。
例え見えなくとも、花を、植物を、生きているもの達を、愛する心だけは変わらないと」
ペールは慈愛を込めた笑顔で続ける。
「それに、この花には精神のバランスを整え、気分を和らげる効果があるとか。
今のルーク様には最適な花だと思いますよ」
手の中に収まっている植木鉢から、優しく香る匂い。
「あぁ、ちなみにその花には、こんな意味があるそうです」
――〝君有りての幸福〟。
その後自分は、それを持ったまま書庫で何冊かの本を調達した後、
衣服や公務の書類などと共に、向こうへと持っていく荷物の整理をしていた。
ペールから預かった大事な鉢は、邪魔にならないよう窓辺に置いて。
ある程度の荷造りが出来た頃、ふとした拍子に視界の隅に赤い色がちらつく。
気付けばいつの間にか日が暮れかけ、カーテンを開けていた窓からはオレンジ色の陽が差し込んでいた。
昼頃にペールから預かった時には、自身の髪色に似ていると思う程の鮮やかな赤い色であったが、
こうして夕日に照らされてみると、その時とはまた違う色に見えることに気付く。
(……似ているな……)
夕陽に染まるその色はまさしく、追い求めているルークの色で。
(……あいつも、こんな風に思っていたんだろうか)
――こうやって、独りで。
――似ている、と微笑んで?
ぎゅうと胸が締め付けられる。
以前の自分には有り得なかった感情。
最初は戸惑いこそあったが、最近はそれも。
――良い加減、認めるべきだろうか。
いつか蒼髪の彼女――ラピスが言った言葉を思い出す。
「『誰よりも近しい存在』か……。確かに、な……」
思い出すのは、あの笑顔。
泣きそうになりながらも、いつも精一杯頑張っていた時の。
無意識に手を伸ばし、咲き始めたばかりの花を優しく撫でる。
「〝君有りての幸福〟……か……」
――なぁ。
お前は知っているか。
こんなにもお前が戻って来るのを待ち望んでいる人達がいることを。
こんなにも焦がれてしまっている者がいることを。
「……早く戻って来い。……〝ルーク〟……」
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