初めて踏み入れた世界は、思っていたよりも広くて。
そこから何かを見出せたら、と願いながら歩く。
額から流れ落ちる嫌な雫。
それは静かに頬を伝い、首へと流れていく。
ごくりと生唾を飲み込み、動悸はどんどんと激しくなり、気の所為か視界も若干擦れて来たような……と彼は思う。
アンバーは今、蛇に睨まれた蛙のような面持ちでひたすら時間が過ぎるのを待っていた。
目の前には、彼が作成した規律(としたもの)の書類に目を通している軍人の姿がある。
そしてその後ろには、気の毒そうにアンバーを見ている被験者の集団と、ここで生活を共にしている同胞達。
(レピドは作品の締切りが迫っているらしく、部屋に篭っているようだ)
誰一人として言葉を発しようとしないそこは、異様な雰囲気に包まれていた。
――ひょっとしたら自分は死んでしまうかもしれない。
ある程度の覚悟、いや、彼にとっては決死の覚悟といって良い。
何にせよ、アンバーは今まで生きて来た中でも片手の指に入る程の危機的状況にあった。
赤目の軍人からのあの悪夢のような通信が切られた後、
彼は必死で机に向かい、何とか期限までにと努力をした。
それ以上膨れようがないだろうと思われる程、頭をフル回転させて。
しかしそれでも出来ないものは出来ない。
出来たことといえば、箇条書きにしていた落書きのようなものを、もう少しマシな文章に整えることぐらいだった。
――諦めよう。
いよいよ期日が明日へと迫り、切羽詰った彼の頭の中にそんな思いが過ぎる。
リドに「俺の名前石(骨は残らない為)は見通しの良い丘の上にでも埋めてくれ」と頼む程、
それ程までに追い詰められていた。
(……もういっそ殺してくれ)
息苦しい無言の圧力に耐え切れず、ついにアンバーがそこまで思い詰めた時。
その原因となっている人物がついに沈黙を破る。
「……ふむ。文章に拙いものはありますが、まぁ良いでしょう」
これで終わりだと絶望していた彼の身に降り注いだのは、
彼が予想していた断罪の言葉ではなく、それとは真逆の位置にある肯定の答えだった。
「……へ?」
まさかそんな答えが返って来るとは露程も思っていなかったアンバーの口からは、
ぱんぱんに張り詰めた風船から空気が抜けた時のような声が出た。
それもそのはず、彼はてっきり滅茶苦茶に貶[けな]された上に、
あの爽やかな笑顔で罰則(という名のいたずら)を言い渡されると思っていたのだ。
そんな心境下にあった彼のこの反応は当然のことかもしれない。
沈黙の時間が余程堪えたのだろう、
解放されたことに実感が沸かないのか、呆然としている彼に対してジェイドは薄く笑う。
「元々憲法や法律などというものは、〝当たり前〟のことしか書いていないのですよ。
貸して差し上げた書物達には、それらを〝少々重く〟書いてあるだけのこと。
砕いて読んで見れば何のことはありません。
それに、確かに私は『規律を決めろ』とは言いましたが、量や枚数までは制限していません。
ここを維持するにおいて、必要最小限のものが決まればそれで良いんです」
その言葉を聞いたアンバーは、ようやく本腰を入れて肩の力を抜く。
それに合わせて周りから「お疲れ様」という幾つもの声が聞こえた。
(助かった……! よく頑張った俺!)
彼はほー……と溜息をつきながら、机の上に項垂れる。
緊張していた身に、机のひんやりとした冷たさが心地良いのだろう、
先程まで吊り上がっていた眉尻が今は垂れ下がっていた。
「あーもう……、二度とやりたくないぞこんなこと……」
「おや。これで終わった訳ではありませんよ?」
その物言いに、アンバーは「ひっ!?」と短い悲鳴を上げ、再び緩んだ緊張の糸が引き締められる。
それは控えていた仲間達も同じようだった。
各々が少し驚いた表情でジェイドに視線を向けている。
机に突っ伏していた彼の顔が恐る恐るといった様子で上に向けられると、
そこには素晴らしく爽やか(といっても過言ではない)な笑顔を浮かべたジェイドが、
これまた爽やかな音質で信じがたい言葉を発した。
「お疲れの所大変申し訳ないのですが、二つ目の課題です♪」
「んなっ!?」
どういうことだと口を開けかけた時、それをジェイドの視線が遮る。
嫌な予感が彼の背をぞわりと撫でていく。
「今までが筆記試験とするなら……、次は実技試験……といった所でしょうか」
「……何が言いたいんだ?」
――分からない。
――この男が一体何を考えているのか。
確かに彼の目の前にいる軍人は、今まで何度もあらゆる窮地を救って来た男だ。
何か考えがあることに間違いはない。
それに、アンバーも少しではあるが彼等と行動を共にして来たことで、
ジェイドが被験者の中でも特別な存在であることは理解している。
「これからあなたには、研修を受けて頂きます」
――が、この突拍子も無いことを言い出す癖(なのだろうか?)は、何とかならないものだろうか。
後ろにいる仲間達はよくこの男と一緒に旅をしたものだと、その時の状況を思い浮かべると彼は同情せざるを得ない。
(さぞかし苦労したんだろうな……)
思わず、といった溜息が彼から漏れる。
「まるで理解出来ない、という顔ですね」
「……当たり前だろう」
――どうして自分がそんなもの(研修)を受けなければならないのか。
「では、分かりやすく説明しましょう。例えば、ここの塔内で何かの問題が起こったとします。
その問題というのが……そうですね、被験者とレプリカの間に起こった諍[いさか]いだったとしましょう」
「――!?」
まるでここの実情は全てお見通しだと言わんばかりの、見透かすような視線。
にこにこといつものように笑っているだけなのに、奥には何かを潜めている。
その深く赤い瞳には一体何が映し出されているのか。
「先日のおさらいです。さて、あなたならどういう行動を起こし、両者に対してどういう判決を下しますか?」
ただの例え話とはいえ、あまりにも的を射た質問にアンバーの顔が引きつる。
実はアンバーはまだ周りには話していないが、ここ最近塔内にいるレプリカ達の被験者に対する不信感が募っている。
そう、今まさにジェイドが言ったように諍いでも起きかねない程、ぴりぴりとした雰囲気が漂い始めているのだ。
原因は恐らく今回の事件。
幸い、現時点ではまだ噂が流れている程度で、確信には届いていない。
逆にそれが不安を煽っているのかもしれないけれど。
(解決策……ねぇ)
今の状態では事件の詳細について話す訳にもいかず、
かといってこのまま放っておけば、いずれ被験者達と衝突する可能性は高い。
もし、仮にそうなった時、彼はどうやってそれを解決しようというのか。
要は問われているのだ。彼自身の能力(力量)が。
「……逆にこっちが聞きたいぐらいだよ……」
「はい?」
考えるだけで頭が痛い内容に、アンバーの口からつい本音が漏れてしまった。
彼ははっと我に返り、慌てて取り繕う。
「――っ! いやっ……何でもない。ええと、そうだな……」
――これは自分達(レプリカ)の心の問題だ。
――ここでまた彼らの手を借りる訳にはいかない。
「まずは両者の意見を聞いて調査して……。判決……って言われてもな」
「……出来ませんか?」
「うーん……レプリカ同士なら話は早いんだが、被験者も関わるとなると俺一人の判断じゃあ難しいだろ?
俺だって判決を下すって言う程偉くもないし、何よりこういったことは初めてなんだ。
そりゃ〝参考になるもの〟でもあればまた違うんだろうけど……」
と、そこまで言ってアンバーの動きが止まる。
――笑っている。
目の前の男が、ジェイドが。
先程とは比べ物にならない程の良い笑顔で。
その笑顔の怖さに固まっていたら、後ろの仲間達が何かに気付いたのか、納得がいったような顔をした。
「〝参考になるもの〟。それがこの研修の目的ですよ。
あなたにはこれから私達と共に各国を回り、政治経済についての勉強をして頂きます。
なぁに手間はとらせません、ほんの一週間程です」
「な……!?」
彼が衝撃の余り二の句を告げずに口をぱくぱくさせていると、
ジェイドはそれをまったく気にしていない素振りでくるりとリドの方へ身体を向けて言った。
「という訳で、リド。お宅のリーダーをちょっとお借りしていきますね♪」
「……嫌だって言っても連れてくんでしょ?」
「もちろん」
にっこりと悪びれもなく言われ、逆に清々しささえ感じてしまったリドは一つ溜息をつく。
こんな状況下でリーダーを預けるのはいささか不安があったが、
一週間程度であれば自分でも抑えていられるかもしれない。
それに、彼にとっては世界を知る良い機会だろうと、リドは考えた。
――仕方がない。
――後で見返りを請求してやろう。
「せめて丁寧に扱ってやってよね。……この借りは大きいよ?」
そうして二時間程が経った頃、慌しかった会議室がようやく静かになった。
リドはギコギコと音を立てる椅子の上で、「面倒なことになったなぁ」と思い耽る。
(……ちゃんと一週間で返してくれれば良いけど)
今頃はもう空の上にいるであろうリーダーを想う。
しかしその想いも束の間、次の瞬間にはリドの頭の中にはすでにリーダーの姿はなく、
彼が乗っている空飛ぶ音機関で埋め尽くされていた。
その切り替えの早さは、彼のポリシーである『楽観的に前向きに考えよう』に基づいている。
(そうだ。アンバーが戻って来た時にでも……)
ノエルに頼み込んでアルビオールを見せてもらおうか、などと考え始めていると、
彼の目の前にあるドアががちゃりと音を立てて開いた。
「あーやっと終ったわぁ……」
そう言ってドアの向こうから顔を出したのは、目の下にくっきりとした隈を付けた、少々やつれた顔をしたレピドだった。
どうやら何とか作品の締切りに間に合ったらしい。
「……お疲れ様」
「あら、リド一人ぃ? 皆帰っちゃったのぉ? アンバーは?」
レピドは欠伸を堪えながらゆっくりとした足取りで会議室に入り、お茶を淹れるべく奥にある給湯室へと進む。
「ジェイド達に拉致られた。一週間ぐらい借りるってさ」
やれやれと肩をすくめる。
同時に凝り固まっていた首の関節が小気味良い音を立てる。
先程までバタバタしていた所為か、今頃になって疲れが出て来たようだ。
レピドにあの白い小さな少女はどうしているのかと聞くと、遊び疲れて部屋で寝ているらしい。
その言葉にリドは安堵した。
以前塞ぎ込んでいた時から言えば、少しばかり元気になったようだ。
部屋の奥からはカチャカチャと食器のこすれ合う音が響く。
それをさながら子守唄のように耳に入れながら、再びこれからのことを考える。
――とりあえず一週間、乗り切れば良い。
「何か、私がいない時に面白いことになってるみたいだわねェ」
ふわりと良い香りがしたと思ったら、机の上に小さな音を立てて紅茶の入ったカップが置かれた。
ちゃんと二人分淹れてくれる所が彼らしい。
そのお礼にといっては何だが、事のあらましを簡単に説明してやった。
「ふぅん……。まぁアンバーの視野を広げるって意味じゃぁ良い方法かもねェ……。
にしても良かったのぉ? 今の時期にリーダーがいないって結構危なくなぁい?」
「通信機は持たせてあるし、いざとなったらそれで連絡をとるさ」
リドはふぅと一息カップの中に息を吹きかけ、それを一口すする。
温かな紅茶は、彼の疲れた身体に気持ちよく染み込んでいった。
「まぁせいぜい頑張って頂戴。私はこれ飲んだら一眠りするわぁ」
「徹夜明けは辛いのよねェ」と盛大に欠伸をしているレピドを見ながら、
リドは『何かあったら絶対こいつも巻き込んでやる』と固く心に誓う。
(本当に、何事もなければ良いけど……)
そう思っていても何事か起こるんだろうなぁと、リドはすでに諦めた表情で窓の外を見た。
見上げた空はそれを示唆するかのように、薄い雲が全体を覆い始めていた。