鮮やかに色付く想いの蕾は、
ゆっくりと広がりながら形を彩る。
名残惜しそうにする両親を振り切り、さらには屋敷の者達にも惜しまれながら、
たった一晩という短い里帰りを終えたアッシュは、早々にベルケンドへと戻って来た。
本当はもう一泊しても良い程の日程を組んでいたのだが、ペールから預かった花が咲く前にと考えたのと、
何より早くルークの顔を見たいと思った所為だった。
――一体何が自分をそこまで急かさせるのか、もう少しで分かる気がしていたから。
アッシュは宿の亭主と軽く挨拶を済ませ、すでに自室と化している部屋へと荷物を放り込む。
そしてペールからの預かり物を抱え直して、早々に研究所にあるルークの部屋へと急いだ。
その内知らぬ間に歩くスピードが速くなり、その靴音の速さから急ぎの用事でもあるのだろうかと、
訝しむように研究員達がこちらを見ている。
周囲の視線が自分に集中していることで初めてそのことに気付いたアッシュは、
それを誤魔化すように咳払いを一つした後、訳もなく急いでいる己を制した。
(何を焦っているんだ、俺は)
――花を。
――そう、花を渡すだけだ。
――なのに、どうしてこんなに緊張しているのだろうか。
ルークがいる部屋を前に、彼は落ち着けと己自身に言い聞かせながら一呼吸する。
決して急いで来たということをルークに悟られてはならない。
――あくまで自然に接しなければ。
そのまま動悸が治まるのを待ち、意を決したように静かにノックをする。
中から返事が返って来たのを確認して彼は自身の名前を告げ、ゆっくりとドアを開けると、
その音に反応したルークが嬉しそうな顔で振り返った。
「おかえり! アッシュ!」
元気そうな顔を見た瞬間、ほわ、と彼の胸の奥が温かくなる。
アッシュはその感情の浮き沈みに戸惑いを感じたが、
それはいつもルークの後ろにいる人物が部屋にいないことで誤魔化された。
「ラズリはどうした?」
「ん? 買い物に行ってる」
ルークの話によると、彼女はどうやら日常品を買いに街へ出ているらしい。
それを聞いたアッシュは余計なことを言われずにすむというほっとした思いと、
二人きりの状態でこれ(花)を渡すのかという戸惑いが絡み合い、何とも複雑な気分になる。
ルークの言葉にアッシュは「そうか」と言って息をつく。
するとルークが目を輝かせながら、「里帰りはどうだった?」と聞いて来た。
彼はそれを適当にあしらいながら、腕に抱えていた物を持って窓辺へと移動する。
そしてペールから譲り受けた植木鉢を陽がよく当たりそうな場所へと置くと、
にこにことやたら上機嫌(に見える)なルークを呼んだ。
「少し、窓辺へ来られるか?」
そう言った後で、アッシュは少しだけ後悔した。
ルークのいる場所から窓辺まではそう大した距離ではなかったが、それでも多少の不安は残る。
彼が手を貸すべきかと悩んでいると、その雰囲気を感じ取ったルークが「慣れたから大丈夫だよ」と返事を返した。
アッシュは近付き過ぎないよう気を付けながら、ルークが来るのを待つ。
しかし彼が思っていたよりも足取り軽く辿り着いたので、慣れたというのは本当なのだろう。
「んで? 何?」
くりっと首を傾けて聞いて来るルークの片手を、アッシュの右手が握る。
その行動に彼女は少し驚いた様子を見せたが、相手が誰だか分かっている所為か、
ルークはアッシュになされるがままとなっている。
それに答えるようにアッシュはルークの手をゆっくりと持ち上げ、植木鉢を置いた場所に誘導した。
「……触って、当ててみろ」
「当てろって……。口で言や良いのに」
ルークはもごもごと口の中で不平を零してはいたが、手の方は素直に確認を始めている。
ぺたぺたと下から上へ。
(何だろう、これ)
鉢の部分を触っていた時はまったく分からなかったようだが、茎や葉っぱの部分に触れると一瞬その手が止まった。
そして今度は鉢に触れていた時とは違い、丁寧にゆっくりと感触を確かめているようだった。
その指先が葉から伸びている茎へと移動し、これから咲こうという蕾に触れた時、ルークがぽつりと漏らす。
「……花?」
「……正解だ。屋敷にいる……庭師がお前に、だとよ」
「俺と〝会ったことない〟のにか? へぇ……その人、優しいんだな!
今度会ったらありがとうって、お礼言っといてくれよ」
そう言いながらルークは笑う。
彼の言う庭師――ペールは会ったことがある所か、ガイと同じようにずっと屋敷内で生活して来た人物だというのに。
「俺、結構花って好きなんだよなー……って言っても、今は見えないんだけどさ」
ルークは僅かに目を細めて、指でその蕾を優しく撫でている。
そのまま花の名前は何と言うのかとアッシュに問い、彼はペールから教えてもらった名前をそのまま告げた。
「ゼラニウムというそうだ」
「――あ! その花なら知ってる! 確か色んな色の花を咲かせるんだよな。これは何色なんだ?」
「……赤だ」
それを聞いたルークはアッシュを見上げると、嬉しそうに微笑んで言った。
「赤、かぁ……アッシュの髪みたいな?」
――胸を鷲掴みにされたようだった。
――赤は、その色は、決して自分の色だけではないというのに。
「それを言うならお前のか――……、……瞳の色もだろうが」
アッシュはつい、〝髪の色も〟と言ってしまいそうになるのを何とか押し止める。
――本来ならその瞳の色は、髪にあるべきなのに。
「えー? 俺、鏡あんま見なかったしなぁ。それに今は見ようとしても見えないし。
あ、でも俺ってアッシュのレプリカだから、瞳と髪の色はアッシュと同じなんだよな?」
――ズキン
その時、小さな痛みがルークのこめかみに走る。
「それなら俺も……って……あれ? アッシュの瞳の色って確か……緑……」
――そして髪の色は、鮮やかな深い〝紅色〟だったはず。
そこでルークは初めて、己が持つ記憶の色と現実の色がちぐはぐであることに気付いた。
(ちょっと待て、ちゃんと思い出せ俺)
そのまま必死で記憶の糸を手繰り寄せる。
しかし、真っ先に思い浮かんだ自身の姿を思い出して愕然とした。
(……瞳の色は〝赤〟で、髪の色は〝碧〟……だった)
――おかしい。
――例え性別は違えども、自分がアッシュのレプリカというのであれば、瞳も、髪の色も、彼と同じ色であるはず。
ルークは増していく頭痛に耐えながら、さらに深く記憶を探り始める。
――探さなければ。
――自分が彼と同じであるという証拠を。
探れば探る程痛みは強くなっていくが、それに構わず探し続けた。
――以前、皆と一緒に旅をしていた時の色は?
――視力と記憶を失う前に、最後に見た自分の瞳と髪は何色だった?
――≪……ザ……ザザ……≫――
ようやく辿り着いたノイズがかった記憶の隙間から見えたのは、アッシュとは違う〝朱い〟髪。
彼と同じ顔で笑っている瞳には、彼の色よりも少し明るい〝碧〟が宿っていた。
――……誰だろう、あれは。
――あの、朱い髪は。
(……アッシュより薄い色素の……)
――アッシュじゃないなら。
――アッシュじゃないなら……?
あと一歩で分かる、という所でついに痛みの限界が来る。
そのあまりの痛さにルークの口から呻きが漏れた。
割れるような激痛は、まるでそこから先は踏み入れることを許さないとでもいうかのように、
後から後から押し寄せて来る。
その波に耐え切れなくなったルークはついに頭を抱えてその場に崩れ落ち、
危うく床と激突しそうになった所をアッシュがとっさに支えた。
己の何気ない一言でルークが黙ってしまったので、どうしたのかと彼が様子を窺っていた矢先の出来事だった。
「い……ってぇ……!! 何だよっ、これ……。どうして……思い出せない……っ!!」
ルークは痛む頭を大きく横に振り、必死に記憶を取り戻そうと奮闘している。
相当な痛みなのだろう、額に汗が滲み出ていた。
アッシュはそんな状態で立っているのは辛いだろうと判断し、彼女を支えた状態からゆっくりと床に座らせた。
がたがたと震えながらそれでも思い出そうとするルークを、彼は何とか止めようと声をかける。
「やめておけ。無理に思い出さなくて良い」
「でも……っ! ――っ痛ぅ……!」
―――辛そうな顔はもう見たくない。
――そんな顔をして欲しい訳じゃない。
「良いから! 辛いんだろうが!」
「でもこのままじゃ……っ! いつまでもこのままじゃ……っ!!」
押し寄せる激痛に耐えながら、はっきりとルークが叫ぶ。
「記憶が戻らなきゃ、アッシュが俺の名前呼んでくれないじゃんか!」
その時受けた衝撃に、彼は一瞬名前を付けられないでいた。
同情?
罪悪感から来る保護欲?
次々と頭の中にそれらの単語が飛び交うが、どれも違う。
――ただひたすらに、〝愛しい〟だけ。
アッシュは瞬時に湧き上がった衝動を堪えきれず、本能が命じるままに痛みに震えるその身体を抱き締めた。
突如包まれた温もりに、ルークがびくり、と体を揺らしたのが彼の視界の隅に映る。
――もう認めてしまおう。
見えないように、気付かないように。
誰にも、己にさえも見付けられないようにと、彼の心の奥にそっと隠していたもの。
――分かっていた。
――とっくの昔に分かっていたことなのだ。
彼の心はずっと呼んでいた。
何かを求めるように叫んでいた。
しかしアッシュは、それからわざと目を逸らし続けていたのだ。
素直になれず、いつも何かしら理由を付けて。
しょうがないからと言い訳をして。
だが、もはやアッシュはそれに耐えることは出来そうになかった。
その分厚い殻を破らんとする勢いで込み上げて来るものを抑え切ることが出来ず、ついにそれらが溢れ出す。
――ルークも、そして、ここにいる〝ルキア〟も。
――愛しいと思う、この感情を。
急にアッシュが抱き締めて来たことに驚いたルークだったが、
そうされることで落ち着きを取り戻し始めている自身がいることに気付く。
さらには、あれ程『男は怖いものだ』と無意識に察して震えていた彼女の身体が、
彼に対してだけはゆっくりと治まっていった。
それをありありと感じたルークは、「アッシュは大丈夫なんだな」とどこか他人事のようにも思っていた。
(どんな顔……、してんのかな……)
こんな時、その表情を直に見ることが出来ない今の自分をルークは口惜しく思った。
せめてその代わりにと、温もりの向こう側にあるアッシュの背にそろそろと手を伸ばす。
おまけにことり、と額を彼の胸に乗せて。
二人はしばらく、そのまま抱き締め合っていた。
その間中、聞こえるのはただお互いの心音だけだった。
とくり、とくりと〝同じ音〟が耳に響く。
例え瞳と髪の色が違っていても、彼と同じである証拠はルークにとってはこれで充分だった。
彼と同じ時間を刻む音。
――鼓動が、合わさる。
――……一つに、なる。
(何か……このまま溶けちゃいそうだな……)
ルークがそんな風に思い始めた頃、ようやくアッシュから声がかかる。
「……落ち着いたか?」
「ぅわっ!!」
その言葉に我に返ったルークは、慌ててアッシュから離れた。
先程まで激痛を伴っていた彼女の頭痛は、とっくの昔に治まっていた。
しかし、その代わりに彼女に押し寄せたのは恥ずかしさ。
改めて自身がアッシュによって抱き締められていたということを自覚したからだった。
(顔が、熱い……)
この分だと耳も同じ状態なんだろうなと、ルークは思う。
彼女は一気に心音が高まるのを感じながら、何と言って返そうかとパニックになる。
「えっと……!」
(落ち着け俺! きっと俺が落ち着くようにって、してくれたことなんだから……!)
それ以外に他意はないはずだと、ルークは自身に言い聞かせた。
すると今度は頭ではなく、胸が少し痛んだけれど。
「……もう大丈夫だから! えっと……ごめんな? ありがとう」
ルークの謝罪と礼に対して、「……別に構わない」と呟くように言ったアッシュだが、
彼自身も耳と頬が彼女と同じように見事に赤く染まっていた。
衝動にまかせてしまったとはいえ、今頃自分が何をしたのか自覚して来たようだ。
そんな二人の間に、微妙な雰囲気が流れる中。
「……そろそろ、中に入っても良いかしら?」
絶妙なタイミングで買い物から帰って来たラズリの声に、二人は身を縮ませる思いをすることになる。
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