遠くから聞こえる小さな声。
自分を呼ぶ、自分と同じ存在の――……
ルークへの想いを自覚したその晩。
自国から回されて来た簡単な公務の書類の整理を終え、残りは明日にしようとベッドに横になる。
しかし、普段ならまもなく訪れるであろう眠気がいつまで経っても来る気配がない。
それ所か、逆に目が冴えていた。
まとめきれなかった紅い髪が、白いシーツの上に散らばっているのが空しく思える。
隠していた想いが表に出たことによる興奮の所為かとも思われたが、それとはまた違う気がした。
(何だってんだ一体……)
一向に閉じられることのない意識に諦めたように溜息をつく。
脇に置いてあった時計を見ると、すでに日付を越えようとしていた。
(こうなったらとことん待つか……)
起き上がって部屋の灯りを点けると、譜石の光が優しく辺りを照らし出した。
そのまま机に向かい、置いてあった書きかけの公務の書類と向き合う。
(文字でも見ていれば、その内眠くなるだろう)
書類をざっと読み直して、頭の中で文章を組み立てる。
ペンを握りしめて「さぁ続きを……」と始めようとした時に、それは聞こえた。
――……リィン――
音と共に、ツキンとこめかみに僅かな痛みが走る。
「気の所為か?」と頭を捻っていると、再び聞こえて来るその音。
――リィィン……――
(この……音は!)
そして弱々しいながらも続くこの痛みは。
もしかしなくとも、これは頭痛などではなく……――
その瞬間、がたんと音を立てて椅子から立ち上がり、急いで上着をはおって隣の部屋へと走る。
もちろん、壁に立てかけておいたローレライの鍵も忘れず手に持って。
(……気の所為でなければ)
――呼んでいる。
――〝ルーク〟が。
高鳴る鼓動はそのままに、勢いよく足を運んだ。
だが、ルークの部屋の扉を前にした時、少し冷静になろうと足を止める。
慌てるな。
落ち着け。
(もし……思い違いだったら……?)
ふと過ぎった不安を、頭を軽く振ることで否定する。
思い違う訳が無い。
先程から続いているこの鈍い痛みが、それを証明しているではないか。
しかし念には念を、と、少し気を使いながら静かにドアを開けた。
室内はシンとしており、何も聞こえない。
灯りを点けるべきかと迷ったが、幸い窓辺からの月光だけで室内を見渡すことが出来たので、
それには及ばなかった。
ゆっくりとルークが寝ているであろうベッドへと足を向ける。
余りの静けさに再び「間違いでは……」という考えが頭の中を過ぎる。
だが、小さな呻き声が聞こえて来た所為でそれは霧散した。
「ぅ……」
静かにベッドの傍に立つ。
そしてその主を見た途端、自分の眉根がぐっと縮まった。
――魘されている。
(ひょっとしなくても……隈の原因はこれだな……)
やはり目の下に鎮座していた隈は、これ(悪夢)の弊害だったのだ。
そして泣いているようなあの声も、ここが根源だったのだろう。
迷惑をかけたくないと、心配をさせたくないという〝ルーク〟の卑屈な性格がそうさせたのだ。
人がいる前では必死に、そして無意識に隠して。
そうして独りになった時にだけ、ひっそりと泣きながら耐えて。
おかしいと思ったのだ。
あれだけの暴行を加えられておきながら、本人はけろりとしているなどと。
どこかで歪みが出来ているはずなのに、〝ルキア〟には一切それが見られなかったから。
その歪みは全て〝彼〟が巧みに隠していたのだ。
辛さや悲しみといったそれらの記憶を、感情を。
――周囲から、〝ルキア〟から。
――そして……自分からも。
「馬鹿が……」
これからもそうやって隠し続けていくつもりだったのだろうか。
それを考えると、つい悪態をついてしまう。
しかし馬鹿だと思うのはルークだけではない。
(気付けなかった……俺も相当だな……)
ベッドの傍にあった椅子に座り、そっとルークの髪を撫でる。
少し前までは、自分より少し明るめの朱がそこにあった。
初めてその朱を見た時は、自分よりも遥かに〝聖なる焔の光〟と名乗るにふさわしい色だと思った。
(だが……あの時は)
ひたすらこの存在が疎ましくてたまらなかった。
「こいつがいる所為で自分が帰れなくなった」と、全てを押し付け、そして憎んだ。
――全てから、自分は逃げていただけだった。
ルークは今もこんな所で……しかも、たった独りで戦っている。
必死に叫んで、泣いて。
その悲しみは、一体誰が受け止めるというのか。
その慟哭は、一体誰に向けて発しているのか。
――周囲には仲間達がいただろう?
――いつもお前を呼んでいただろう?
(どうしていつも……)
どうして、いつも。
そうやって独りで抱え込む?
誰にも知られないように、隠れるように、涙を流そうとする?
あの頃のように、我侭を言えば良い。
さすがに全て、とは言わないが、せめて「独りにするな」ぐらいの我侭は。
共鳴するかのように続く頭痛。
聞く所によると、回線を繋ぐと向こう側はいつも激しい痛みを伴っていたという。
「……〝ルーク〟……」
『聞こえない』、『認識されない』と分かっていても、ずっと呼び続けている名前。
自分だけじゃない、それは仲間達にも言えること。
皆が待っている。
自分も待っている。
ただひたすら、お前が帰って来るのを待っている。
またあの笑顔を、見せてくれることを願っている。
(……お前の)
握り締めた手が、熱い。
「お前の居場所は、〝そこ〟じゃないだろう?」
――と、その時。
急に部屋の中が仄かに明るくなったかと思えば、手元にあったルークの髪が淡く光を放ち始めていた。
そして驚く暇もないままに、自分の指先が触れている部分から色が少しずつ変わっていく。
新緑の碧から、焔色の朱へと。
――その色は、誰もが待ち望んでいる、あの。
「……ルーク……?」
驚きを隠せないまま、続けて名前を呼んでみる。
ひょっとして聞こえているかもしれないと、期待を込めて。
そうして徐々に焔の輪が広がり、髪全体が朱に染まると、その口から唸るような声が聞こえて来た。
「ぅあ……あ……! さわ……な……!」
拒絶するようなそれに、びくりと髪に触れていた手が揺れる。
ルークの顔に視線を向けると、苦しそうに眉根が寄せられ、顔色は青ざめている。
閉じられた目尻には光るものが見えた。
ひょっとして〝リア〟に捕らえられた時のことを夢に見ているのだろうか。
そう思った自分は、そのまま手を動かさずに様子を見ることにする。
「……や……ア……ッシュ……!!」
嫌がるように首を振った拍子に、目尻に溜まっていた涙が静かに頬へと流れた。
その一筋を追うように、後から後から雫がその跡を追いかけていく。
――間違いない、これは〝ルーク〟だ。
「何の根拠があって」と言われれば、それに答えることは難しい。
だが、確かにこれは周囲が、そして自分が待っている、あの〝ルーク〟だ。
身体の中を、ぞわりと駆け上がるものがある。
それは、歓喜。
意識はなくとも、ようやく会えたことへの喜び。
(聞こえているんだろう、ローレライ! 返事をしやがれ!!)
右手に持っていたローレライの鍵に意識を集中すると、それに呼応するかのように、あの音が鳴り始めた。
――……リィィン……リリィィィン……――
壮麗たる鈴の音が辺りに響いていく。
その身に主を宿そうとしているのか、鍵がじわりと光り始めた。
そこから湧き上がる、小さな光の泡達が部屋へと溢れていく様を見詰めながら、ルークの手を強く握り締めた。
早く、早く。
あの朱を迎えに行かなければ。
呼んでいるのだ。自分を。
他の誰でもない、自分を。
―第七章Trigger完―
PR