(絶対、気付かれた……よな)
ルークはラズリと共に渓谷をあとにし、逃げる途中で隠れるように近くの森へ入った。そこで完全に気配を消して息を整える。
――気付かなかった。
いや、気付いていなかったというのが正しい。髪色がいつの間にか変わっていることに。
その色はルークの意思で逆転できるはずだった――なのに、今回は意思とは無関係に変わっている。
一体どういうことだとルークは思ったが、そういえば音譜帯にいるときにローレライが何事かを言っていたことを思い出す。
(えーと……)
恐らくあれは、ルークの身体――女性体――が構築される前のこと。確か、『深層心理においての激しい混乱や、強い思い《願い》があった場合は強制的に今の色になる』――だったか。
今までそんな重要なことを失念していたのはこちらの不備だが、ルークにはどうしても腑に落ちないことがあった。
強い思いや混乱があったのは確かだ。それが原因で色の逆転が起こったのも分かる。しかし、自分は染料を使って髪を茶色に染めていた。だから例え髪色が入れ替わったとしても、染料は残っているはず――なのに。
ルークは身体の前に流れているそれを一房取って見詰めた。同じようにラズリも、髪束を握る彼女の手元を見る。
「……何で……?」
「……染料が、取れているわね」
ここで分かったことは、どうやら髪色が逆転するときは染料の効果も消えるらしい。だとしたらこの事実は物凄く――
「めんどくせぇ……」
染めた色があっという間に消えてしまうのは仕方がないとしても、髪の色が逆転するたびに染料を使って染め直さなければならないことが苦痛だ。
――この長ったらしい髪を。
いっそのこと切ってしまいたいとルークは思うも、横目でラズリを見ると「それは駄目」とでも言いたげに首を横に振っている。
(しょうがない……これからは色が逆転しないようになるべく気を付けよう)
頭を抱えたルークの口からは、諦めたような溜息しか出なかった。
ところ変わって、まんまとルークに逃げられたアッシュはと言えば、仲間達と共にアルビオールに乗り込んでいた。
機内では今もその飛空艇を操る金髪の少女――ノエルと出会い、「兄が会いたがっていました」とアッシュに向かって笑って言った。彼はその言葉に促されるように、どこかのんびりした雰囲気を持つ銀髪の男性を思い出したあと、いずれ会いに行く旨を伝えて席に着く。
そうして落ち着いたところで、アッシュは仲間達にここに至るまでの経緯を話し始めた。
まず、自分は大爆発によって生き返ったこと。しかし、本来なら吸収されるはずであるルークの記憶がなく、どういうことかとローレライを問い詰めたところ、気になることを言われたこと。
――『お前が求める聖なる焔の光は新たなる光を伴い、新たなる場所で息づいている』――
――『我が少々手を加えておいた。探すなら探してみるが良い』――
――『ただしあれは、お前と、あれの仲間達と会うことを良しとしてはいない』――
そしてタタル渓谷の崖上に二人の影を見付け、その内の一人は朱い髪に碧の瞳であったこと。
――ここで分からないことは二つ。
一つ目は、ローレライが少々手を加えたという意味。二つ目は、ルークはどうやら〝アッシュ達には会いたくないらしい〟ということだ。
理由はどうあれ、ルークが生きているという事実は仲間達にとって――そしてアッシュにとっても喜ばしいものだった。しかし、あの優しい存在が彼らに会いたくないと思っていることが、にわかには信じられなかった。
どうして、と思う気持ちが仲間達を巡り、段々と空気が重くなっていくのを感じる。
その空気にアッシュは居心地の悪さを覚え、何とかそれを取り繕うとしたそのとき。周囲の様子を静かに見詰めていた赤目の軍人――ジェイドが口を開いた。
「確証を持ったことは言えませんが、ルークは私達に会いたくないのではなく、〝会えない理由〟があるのではないでしょうか」
「ひょっとしたらそれが、ローレライが言うところの〝手を加えた〟ことが原因かもしれない」と。
確かにそう言われれば納得は出来るが、それを聞いてますます仲間達は頭を捻る。
ローレライが手を加えたことでルークは自分達に会いたくないと思っている。そう思うほど、手を加えられた〝もの〟とは。
そして彼らから逃げたのが一人ではなく、二人だったということは、誰かと共に行動していることは間違いない。ルークと共に行動しているであろう人物の素性も気になるところだ。
「……行動を起こすには、情報が足りませんね」
ジェイドのその発言は、最もな意見だった。
現時点での情報だけでは、逃げた二人を探すことは出来そうもない。こうなればここにいる各々が帰還したあとで、それぞれが出来る範囲で情報収集に当たる他ないだろう。
自然と周囲の視線が交わされると同時に、ルーク捜索に向けて全力を尽くすことを一同は誓い合う。
渓谷近くに着陸させていたアルビオールのエンジンがかかり、帰国の準備が始まる。
そんな中、他へ向けられていたナタリアの視線がゆっくりとアッシュに向けられた。その不安そうな表情から、彼女が何を問おうとしているのかが手に取るように分かる。
「アッシュはこれから……どうするおつもりなんですの?」
――やはり。
アッシュは思った通りの内容に、思わず溜息をつきかける。
「……俺は、あそこに戻るつもりはない。一人で動く」
「そんな……! そんなこと……!!」
ナタリアの目に涙が浮かぶ。
そうして涙ながらに語られたのは、アッシュの生家である屋敷内のことだった。
屋敷では毎日のように両親や白光騎士団、メイド達、他自分達に関わる全ての人が〝二人のルーク〟の帰還を待っているらしい。特に彼の母であるシュザンヌは、見ていられないほど顔色が悪く、毎日ふさぎこんでいるとか。
「せめて両親に会って行って欲しい」とナタリアに泣きつかれたアッシュは、仕方なくそれを承諾した。
アルビオールがバチカル付近に着地すると、アッシュはそのまま仲間達と共に屋敷へと戻る。彼の生存が知られると混乱を招く恐れがあるため、外部から身を隠すように中へ入った。
そのあまりの手際の良さは、アッシュがアルビオール内で今までの経緯の説明をしている間、ナタリアが予めここに連絡をしていたことを思わせた。
(まったく女というものは……強《したた》かなものだ)
あの涙はアッシュをここへと連れて来るための芝居だったのかもしれない。現に彼の隣では満面の笑顔を貼り付けた王女が、さあさあと扉を開けるように促している。
アッシュは脱力しかける肩をそのままに扉を開けると、そこには彼の帰還を喜ぶ者達がずらりと揃っていた。
「「……おかえりなさいませ!!」」
叫ばれるようにして一斉に言われた言葉。
中には感極まって咽び泣く者、涙を流しながらこちらを見る者、良かったと笑い合う者達。長くこの屋敷を空けていたのに、誰一人としてアッシュを拒否する者はいなかった。
じんわりと彼の心に嬉しさが湧き上がる。それは後ろに居る仲間達も同じであろう。
すると、近くにいた昔からいる執事がアッシュに話し掛けて来た。
「坊ちゃま……。よくぞご無事で……」
「ラムダス……。俺はもう坊ちゃまと呼ばれる歳ではない」
「いいえ、それでも私にとってあなた様はまだ、坊ちゃまです」
「……、……父上と母上はどこにいる」
坊ちゃまという呼び名にアッシュは抵抗を覚えるが、長く屋敷から離れていた彼の立場を考えれば、その気持ちを無下にしたくはない。それにここで押し問答を始めても仕方がないとアッシュは思う。
彼は早々に両親の居場所をラムダスに聞くと、彼には分かっていたのか「こちらでございます」と動じることもなく案内をされる。後ろにいた仲間達は「ここで待っているから」と笑いながらアッシュに手を振っている。両親との再会を邪魔したくないのだろう。彼らとはそのまま応接間で別れた。
ある扉の前に来ると、ラムダスは数回ノックをして入室の許可を得たあと、ゆっくりと扉を開いた。その扉が完全に開け放たれると同時にこちらに振り返る顔が、歓喜に染まった。
アッシュの母――シュザンヌは涙を流しながら、父――クリムゾンは彼女を支えるようにアッシュを見詰めている。
「あぁ……! 戻って来てくれたのですね……〝ルーク〟!」
「……母上……」
「〝ルーク〟……良く、帰って来てくれたな……」
「父上……」
二人共がそれぞれに疲れきった表情をしていたが、アッシュが戻ったことを純粋に喜ぶ感情を言葉に滲ませながら、彼の名を呼んだ。
――〝ルーク〟と。
以前は、呼ばれたいと思っていた名前。例え名前が変わっても両親にだけは呼んで欲しいと、こっそりと願っていた。しかし今は。今だけは、どうかその名で呼ばないで欲しいとアッシュは思う。
「これからは……ずっと一緒なのでしょう?」
「それは……」
シュザンヌは真っ赤に染めた瞳から涙を流しながら、か細い声で懇願する。あまりに儚げなその様子に、彼は「無理だ」と即答出来ない。
「どうか母の頼みを聞いてはくれませんか……。母はもう二度とあなた達を失いたくないのです」
あなた〝達〟という言葉にアッシュの胸が詰まる。
自分はもうここに戻るつもりはなかった。この温かい場所はすでに自分のものではないと思っていた。だが、心のどこかで〝戻りたい〟と思う気持ちがあるのは確かだ。実際心がそう叫んでいる。
アッシュは相反するその想いに苦笑するしかない。
「私からも……頼む。もう、あんな思いをしたくはないのだ」
クリムゾンの言葉が止めだった。
両親の心からの言葉にアッシュの意思はついに折れた。ただし戻るにはいくつかの条件がある、と言葉を添えて。
その条件とは、名をルークではなく、これからは〝アッシュ・フォン・ファブレ〟と名乗ること。ナタリアとの婚約を解消すること。己が持つ第三王位継承権を取り消すこと、の三つだった。
しかし公務は行い、陰ながら国政のサポートはしていくことをアッシュが伝えると、クリムゾンはしばし思案したものの、彼は観念したように了承の意を示した。
満月の下でアッシュとつかの間の再会を果たしてから数日が経ったあと、世界を救った英雄の一人である〝アッシュ・フォン・ファブレが帰還した〟という朗報が世界中に広まった。紅い髪の英雄の帰還を祝う宴が、国を挙げて行われたという。
もちろんその朗報は、以前と変わらずレプリカ救済の旅に出ているルーク達の耳にも届いた。
(そっか……戻ったんだ……。良かった)
彼は無事、あの陽だまりへと戻ったのだ。それは兼ねてからのルークの願いの一つだった。
(でも、どうして名前……ルークに戻さないのかな)
奪っていた名前と場所を返すつもりでルークは〝ルキア〟と名乗った。けれど彼はあの屋敷へ戻ったにもかかわらず、ルークには戻ろうとしない。
――ひょっとして、自分が使っていたせいだろうか?
だとしたら自分は相当嫌われているのだろう。あのとき、己のちっぽけな記憶ですら阻まれたのだから。
だけどそれでも良い、とルークは思う。
相手がどう思っていようとも嫌いにはなれない。それに今後一切、彼に会うつもりもないのだ。タタル渓谷で、あのとき一瞬だけ目が合った。それだけで良い。自分は外からこっそりと見守るだけで良い。風の噂で彼が元気であると、それが分かるだけで良い。
――もう会わないと、決めたのだから。
そうして塞ぎ始めたルークの横から、ラズリが「大丈夫?」と心配そうに声を掛けた。あぁ、この存在にどれだけ助けられたことだろうとルークは思う。
彼女は半ば無理矢理に顔に笑顔を貼り付けて、ラズリに心配ない旨を伝えた。そして肩から落ちかけていたマントを直し、「行こう」と彼女に声を掛ける。
もう、迷いはない。例えこの先に幾多の試練が待ち受けようとも。
今はただ、幸せを。あの紅い髪の彼の幸福を。
ただひたすらに祈って歩いて行く。
―第一章 Hide 完―