ようやく迎えに行ける。
この手に抱くことが出来る。
部屋中に広がった光が、小さく音を奏でている。
よくよく耳を澄ますとそれは大譜歌だった。
『そう怒鳴らなくとも聞こえている』
独特の音階で聞こえたそれが止まり、光は自分の目の前で光の束となって留まった。
「……御託は良い。こいつのフォンスロットはどうなっている?」
『……ふむ。以前は頑なに閉じられていたが、今は僅かにだが開いているようだな。
これなら、お前一人の意識ぐらいは潜り込ませることは可能だろう』
「なら、今すぐにやれ。俺が中からこいつを叩き起こす」
焦るのは良くないと、あの軍人からも再三宥められていたことだが、
ようやくあの朱に会えるかもしれないと思っている今の自分にとって、
それを実行することは難しく思えた。
そんな自分の心理状況が手に取るように分かるのか、ローレライが半ば諦めたような口調で言う。
『……相変わらず言うことが乱暴だな。まぁ、良い』
光の炎がルークの上に浮かび、そのまま光を放ち始めた。
その眩しさに眉を潜めると、視界がうっすらと揺らいで来る。
ローレライが一時的に自分の意識を、ルークの精神の中へと移しているのだろう。
薄れ行く意識の中で、微かにローレライの声が聞こえる。
『……あれを……あの〝檻〟から……出して……』
(――檻?)
その意味が分からない内に、自分の意識は閉ざされた。
ゆっくりと目を開けた先に、真っ白な世界が広がる。
見渡す限りの白。
そこは不思議な空間だった。
何もない上に、自分の影すらない。
自分がそこへ立っているのか、ちゃんとそこに存在しているのかすら分からない、全てがあやふやな世界だった。
(ここは……本当にあいつの意識の中なのか……?)
ローレライが送ってくれたというのなら、ここがルークの精神の中だということには間違いはないが、
そうして疑ってしまう程ここには何も無かったのだ。
何かないかと辺りを窺うが、どこを見ても変わらず真っ白な世界が広がるだけだった。
さてどうしたものかと溜息をつきそうになった時、背後から声がかかった。
「……アッシュ……?」
聞き覚えのあるそれに驚き、急いで後ろを振り返る。
視線の先には見慣れた人物がいた。
緑の髪、焔色の瞳。
気配はなかった。
それ以前にこの世界には、それすら存在しないのかもしれないが。
「……〝ルキア〟……」
どうしてここに、と口にしようとしたが何のことはない。
ここは〝ルーク〟の世界だ。彼女がいても何ら不思議はないことに気付く。
どうやら思った以上に、自分は動揺しているようだ。
そんな自分に、ルキアは微笑みながら言った。
「やっと、呼んでくれたな」
――〝ルキア〟と。
〝ルーク〟の記憶が戻るまでは、決して呼ぶまいとしていたそれ。
しかし、この不可思議な空間の所為で生じた気の緩みがそれを許してしまった。
「そんな顔するなよ。俺だって〝ルーク〟の一部なんだから」
「……すまない」
「良いって! ……でも、そっか、アッシュがここにいるってことは……」
淡く、しかし悲しそうに微笑みながら、ルキアがこちらに近付いて来る。
「……呼ばれたんだな。〝あの子〟に……」
近くまで来た彼女の顔は、どこか疲れたような表情だった。
「今までは、無理だったけど……。アッシュがいるなら、ひょっとするかも……」
小さく、呟くように言われた言葉に自分は首を傾げる。
「……何を言っている? それに……〝あの子〟とは誰のことだ?」
早くここからルークを探し出さなければならないというのに。
それにあまりここに居すぎると、ルークの精神に傷が付いてしまうかもしれない。
「そんなに焦らなくても大丈夫だよ。……きっと、拒めないだろうし」
本当に先から何を言っているのだろう。
事情がよく掴めない自分の眉間に皺が刻まれていく。
隣に立つような位置に来たルキアは歩む足を止め、ぽつぽつと話し始めた。
「ラズがレムの塔に戻った夜辺りかな……。俺、毎晩のようにここに来てるんだ。
それも自分からって訳じゃなくて、いつの間にか来てるって感じなんだけどさ」
彼女の視線が静かに上へと移される。
「んで、ここでいつも繰り返し繰り返し、〝見て〟るんだ」
「何を」と、問う前に、その答えが分かる。
何も無かった白い世界に、きらきらと何かの欠片が落ちて来たのだ。
一つ一つが特徴のある輝きを持つそれらは、どんな宝石も適わないと思える程の美しさだった。
「これは……?」
一体どこから――と落ちて来る元を見上げたが、残念ながらその先は見えない。
仕方なくそれを追うのは諦めて視線を欠片に戻す。
欠片達はきらきらと輝きながら螺旋を描いて一箇所に集まり、その場に蓄積されていく。
欠片が重なる度に、シャラシャラという清浄な音が辺りに小さく響いた。
その透明な音と共に、静かに積もっていく欠片達。
砂のようにも見えるそれは、そのまま丸い球状を象っていくように見えた。
それを黙って見ていたルキアが、球体になりつつある欠片達に触れようと手を伸ばす。
「――なっ!?」
しかし次の瞬間、それらを守るかのように分厚い透明な壁が彼女の前に立ちはだかったのだ。
自分はそれを呆然と見詰め、彼女はそれを見て苦笑した。
「いつもこうやって触ろうとするんだけど、その度にこんな風に壁が出来て拒まれるんだ。
別の場所から――と思って移動しても、その壁も一緒について来るし、何をやっても壊れない」
「例えば、」とルキアは左手を思いっきりその壁に撃ち当てる――が、
壁はびくともしない所か、逆に撃ち当てられた衝撃を吸収しているようにも見えた。
その拳が痛まないように配慮されているのだろうか。
「ここから出ようと思っても、この空間に出口はないから夢から覚めるのを待つしかない。
だから俺は、半強制的に向こう側で流れている〝映像〟を見ているしかないんだ」
「映像?」
「……欠片をよく見て」
ルキアに言われた通りに欠片を見ると、その一つ一つに、小さく映像が流れていることに気が付いた。
「ここに来るようになってから、ずっと見てるんだ。……〝記憶〟を」
「記憶……?」
じっと、その小さなスクリーンで流れ続ける映像を見詰める。
端々ながら映り行くそれには見覚えがあった。
――ひょっとしてこれは、この映像は。
「……まさか……」
「……そう。この欠片達は、アッシュが〝あの子〟から受け継ぐはずだった記憶」
ルキアがゆっくりと言葉を紡ぐ。
「〝ルーク〟の記憶だよ」
サラサラと落ちていた欠片達は、いつの間にかその姿を変えており、
降り注ぐ欠片から、真っ白い空間にぽっかりと浮かぶ球体となっていた。
球体はそのままふわふわと浮かびながら、ゆっくりと上昇を始める。
そしてある一定の高さで止まると、その側面に映像を映し出した。
と同時に、真っ白い空間全体にもそれと同じ映像が拡がっていく。
次から次へと起こる事態についていけなくなった自分は、大人しくそれを見ているしかない。
そうしている内にも空間全体に映像が埋まっていき、
すっぽりとそれに覆われた後に目に入ったのは、見覚えのある景色。
「いつもここから始まるんだ」というルキアの言葉を合図に、映し出された映像が動き始めた。
「……俺達は見てるだけだから、映し出される映像に対しては何も出来ない。
ただ……この子が感じていることや考えていることは、勝手に流れて来るけどね」
「……ここは……」
映像が左右にゆっくりと動いている。
これはルークの視点だろうか?
聞かずともその答えは、次に映った映像で分かる。
周りにいるのは屋敷に仕えているメイド達。
そしてその間に見えるのは、今よりも幼い使用人である金髪の少年の姿。
(これは……あいつが屋敷へ戻った時の記憶か……?)
――自分の代わりに、あの屋敷へ送られた時の。
『ルーク様……お可哀想に……』
『余程怖い目に遭われたのね。今までの記憶を失ってしまうなんて……』
『シュザンヌ様も、嘆くあまりに倒れてしまわれたし……』
周りに居るメイド達の声が聞こえる。
だが、当の本人は知らない所に来て少し不安に思っているだけで、
自分が記憶喪失になったことなどまったく気にしていない様子だった。
(それはそうか……元からこの屋敷で育った記憶などないのだからな)
視線は未だ彷徨っている。
自分がどういう状況にあるか、まだ理解していないようだ。
視線が手に止まる。
その後、ゆっくりと指先を動かしていた。
――流れて来る感情は不安と、そして〝無〟
周囲の言葉や雰囲気に対して、何も感じていない。
そして自分自身にさえ、何も感じていない。
――こんなものは知らない。
――ルークが、こんな風に感じていたなんて。
若干の驚きを見せた自分に対し、ルキアが苦笑して言う。
「そんなに驚かなくても……。当然のことだろ? 産まれたばっかりで、いきなりここへ連れて来られたんだから」
それを聞いて初めて思い知らされる。
そう、産まれたばかりの赤子でさえ周囲に不安を感じて泣く。
しかしルークは、自分達の勝手な都合で産み出された上に、
その産声すら上げられないままあの屋敷へ連れて行かれたのだ。
そんな当たり前のことを、自分は今の今まで忘れていた。
「最初は、この子の世界には何もなかったんだ。……もうすぐ場面が変わるよ。ほら」
ぱっと場面が変わる。
今度は視界にたくさんの金色が広がっている。
その髪色から察するに、どうやらガイの髪の毛のようだ。
地面が遠い。
下を見ている視界に、ガイの足が映る。
彼に背負われているのだろうか。
『記憶を失うってだけで、こんなに変わるもんなんだなぁ』
どこか遠くにガイの声が聞こえる。
『前のお前だったら、絶対こんな風におぶらせてなんかくれなかったし』
歩く振動に合わせて視界がゆらゆらと揺れる。
『それ以前に、何もない所で転んで泣き叫ぶ……なんてことはなかっただろうしな』
はは、と小さく笑った後、自嘲じみた声で呟くのが聞こえた。
『でも……こうやって歩くのは……悪くない、な……』
辺りを、純粋な喜びが包んだ。
〝嬉しい〟という感情を覚えたのだ。
それはとても心地良く、ルキアと自分の中を通り抜けていった。
その後ルークは、言葉を覚え、歩くことを覚え、人と会話することを覚えた。
ちっぽけだった彼の世界は、限られた屋敷の中だけでだが、どんどんと広がっていく。
同時に自分は、改めてルークについて考えていく。
――あの時はただ憎かった。
幼少の頃、一度だけこの屋敷に戻った時、
囲まれるようにして世話を焼かれていた姿を目前で見て絶望し、憎悪した。
『何も知らないレプリカ如きが、俺の居場所を奪ったのだ』と。
それから自分は肩書きも名前も捨て、〝聖なる焔の燃えカス〟という意味で〝アッシュ〟と名乗り、
ここまで這い上がって来た。
当然のように受け入れられている自分のレプリカを、ひたすら憎みながら。
しかしこれはなんだ。
レプリカという言葉や意味など、まったく関係のない世界。
ルークにとって望んだ生ではなかったにしろ、そこにあったのはただ――
――ひたすらに生きようとしている姿だった。
自然と、いつか群青色の髪をした少女が言った言葉が頭の中で流れて行く。
――『人の手で作られたとはいえ、同じ時間を、場所を、
生きて、生きようとしているものを、どうして嫌わなければいけないの?』――
今、ようやく本当の意味でそれが理解出来たような気がした。
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