自分よりも小さなその身体で。
その身に有り余る業を背負っていたというのか。
新しい知識や記憶を取り入れていく日々。
だが、穏やかに、緩やかに流れていく屋敷の中での生活は、決して〝幸せ〟な風景とは言えなかった。
自分が想像していたものと遥かに違うそれ。
しかし、それが彼にとっての〝日常〟だったのだ。
その箱庭は大きいように見えて、しかしとても小さいものだった。
――ルークがいなければ、自分があの状態にあったのかもしれない。
それこそ、成人するまでずっとあの〝檻〟の中で。
世界を知らず、人との関わり方も知らずに。
そんなことを考えている内に、ついにルークの旅立ちの瞬間が訪れる。
彼が初めて世界を知ることになった時だ。
眠りへと誘う第一譜歌と共に、亜麻色の髪の少女がヴァンを討とうと屋敷を襲撃し、
超振動(同じ音素振動数を持つ音素同士が相対したことで起きる現象)によって屋敷の外へと飛ばされる。
この出来事は人伝[ひとづて]に聞いた程度だった。
だからかもしれない。
こんなに新鮮に感じるのは。
外部から遮断された空間しか知らなかった彼の世界は、それをきっかけに大きく広がっていく。
初めて見る花、海、滝、山、目前に広がるありとあらゆる自然。
そして何より、屋敷にいた時には切り取られたようにしか見えなかった、この世界を覆う鮮やかな青い空。
空間全体に、〝歓喜〟が溢れ返った。
知識としてはあったものの、成人するまで見ることは適わないと思っていたのだろう。
映像の中の彼はいつも、新たに見るものに興味を示し、あれこれと聞いていた。
そして買い物の仕方を知らなかったのも、あんな生活をしていたらそれも当然のことだったのだと思う。
――心が、締め付けられる。
自分達にとっての〝常識〟は、彼にとってはそうではなかったのだ。
知っていて当然のことを知らない彼を、仲間達は、そして自分は。
『世間知らずの貴族の息子』だと称し、出会った時から見下していた。
――そこにいたのは、産まれてから七年しか経っていない、ただの子供だったのに!
(こんなこと、今更……)
――今更、分かっても。
自分の中にふつふつと湧き上がって来るもの。
これはきっと後悔。
そしてふと、自分が七歳の頃は何をしていただろうか、と思う。
(あの頃は……確か……)
自分の特異的な能力である超振動の実験が、定期的にベルケンドで行われていた頃だ。
父親の愛情に飢えてはいたが、それでもナタリアや母上の、そして周囲からの愛情を受けて育ち、
いずれ自分は国政に携わるのだということを当然と捉えていた頃だ。
(あいつは……)
――そんな時期に、人を殺めることを覚えたのか。
流れて来る映像を感じながら、初めて彼と出会った時に自分が言った言葉を思い出した。
――『人を殺すのが怖いなら、剣なんて棄てちまいな。この出来損ないが!』――
酷いことを言ってしまった、と、改めて後悔する。
自分がまだ勉学に勤しんでいた頃にあたる七歳の子供が。
しかもそれまで屋敷の外には一切出たことなどない、そこで初めて屋敷外の人間と関わった子供が、
その手で人を殺めてしまったのだ。
怖いと思うのは当然のことだろう。
もちろん自分も人を殺めたことはある。
しかし少なくともそれは、神託騎士団に入隊した後のことだ。
そこでも十歳未満の隊員は隊長クラスの許可がなければ実戦はおろか、戦地へ赴くことすら出来ない。
余程のことがない限りは、教会での待機を命じられるのだ。
だが自分達は、彼の外見が自分と同じ十七歳というだけで判断し、内面までは分かろうとしなかった。
それ所か甘ったれたお坊ちゃんだと思い込み、行動した。
(レプリカだと、知らなかったとはいえ……)
いや……レプリカだと、知っていながら。
――自分達は、自分は、何と、愚かなことを。
もうすぐ、その瞬間が来ようとしている。
今空間に映し出されているのは船上。
自分にも見覚えのあるそこは、恐らくタルタロスだ。
この先に起こるであろう出来事に覚悟を決める。
あの時、ルークは何を思い、何を考えていたのか。
それを知った所で言い訳は出来ないし、逃げることも適わない。
だが、自分と初めて出会った時に彼が何を考えていたのか、それだけが気になった。
(……?)
しかし恐れていた瞬間は訪れず、そこだけ切り抜いたようにパッと次の映像に変わる。
(何故だ?)
あの出来事は彼にとって重要な記憶のはず。
不思議に思い、次々と流れる映像達を凝視していく。
それらを見ている内に、何かがおかしいことに気付いた。
(……足りない)
ルークが初めて人を殺めた記憶だけではなく、
彼が今も囚われているあの〝アクゼリュス〟の記憶も映されないのだ。
しかもそれだけではない。
彼が女性体となり、数人の男達に暴行を加えられた記憶すら。
(意図的に退けられている……?)
しばらく見詰めていると、繰り返すように流れて来る映像には共通点があることが分かった。
流れて来る映像は全て、彼にとっての喜びや楽しみといったものばかり。
逆に、彼が悲しみ、苦しんだであろう記憶はすっぽりと抜け落ちているのだ。
「……気付いた?」
ぽつりと、隣に居たルキアが呟くように言う。
「そう、ここにはないんだ。……あの子が全部持っていっちゃったから」
「……〝ルーク〟が、か?」
濁すような表現をはっきりさせる為に、彼の名前をはっきりと出してみたが、ルキアは悲しそうに微笑むだけだった。
「もうすぐ……会えるよ」
「何……――!?」
それはどういうことだと、続けて聞こうとした言葉は、映し出されていた映像が止まることで封じられる。
空間全体に拡がっていた映像達が帯状に解[ほど]けていくのだ。
しゅるしゅるという音が聞こえる。
そうして完全に解けた帯は、幾重にも重なりながら元の球体にまとまった。
そのあっという間の出来事を、言葉もなくひたすら見続けることしかできなかった。
隣に居るルキアはすでに慣れているのか、それに動じることなくじっと球体を見詰めている。
それに習うように自分の視線も球体へと向けた。
二人の視線がふわふわと浮かぶ球体に集中すると、どこからか小さな声が聞こえて来た。
じっと耳をすましてみると、それは子供の声のようだった。
徐々に聞こえて来るその声に、自分の記憶が引き起こされる。
それは毎夜、ルキアの眠る部屋から聞こえて来た、あの泣き声だった。
『……う……えぇえ……っ』
『うぁぁああん……』
『……ひっく……っ……』
声が大きくなるにつれ、球体の中が赤黒く染まっていく。
その色はどす黒い、まるで血のような色。
子供の声はその中心から聞こえてきていた。
目を凝らして球体を見る。
背丈から察するに年齢は五……いや七歳ぐらいだろうか。
それぐらいの子供が、何かに追われて逃げている様子が見える。
『ごめ……んなさ……』
『……ごめんなさい……っ……』
必死に謝罪する子供の手には、見慣れた剣。
そして、走っている反動で揺れている髪色は、朱。
「――っ!!」
泣いていた子供が誰だか分かった時、居てもたっても居られずにその球体へ手を伸ばそうとするが、
何故かルキアがそれを引き止めた。
「……離せ! あれは、あれはっ!!」
「うん、言いたいことは分かるよ、アッシュ。だけど、落ち着いて?
今触れば、あの子の精神に傷が付くかもしれないから」
そう言われて、動きを止める。
「もう少し、もう少しだから」
彼女も辛いのだろう、自分を引き止めたその手が震えている。
焦る気持ちはきっと同じなのだ。
そう思った自分は彼女の震えている手をとり、安心させるように手を繋ぐ。
急に包まれたそれにルキアは驚いたが、嬉しそうに「ありがとう」とだけ呟いた。
“何故、お前だけが生きている”
『ごめんなさ……』
“この人殺し!!”
『ごめんなさい』
“人間じゃないくせに! 化け物め!!”
『ごめんなさい……っ!』
逃げている子供の口からは謝罪の言葉しか出ない。
いや、謝罪というよりそれは慟哭に近いものがあった。
叫びながら、泣きながら、それでも謝って。
しかし決して〝助けて〟と口にすることはなく。
「俺のさ、悲しいとか、辛いとか……とにかく苦しんだ記憶を、この子が全部持っていっちゃうんだ」
手を繋ぐことで安心したのか、ルキアが少し困ったように笑う。
(それで、暴行された後でもあんなに笑っていられたのか……)
「だから、頭では〝悲しい〟って思ってても、心は何も感じていない。
そんな感情は全部、この子がここへ閉じ込めてしまうから」
……あぁ、ローレライの言っていた〝檻〟とは、きっとこの事なのだろう。
――どこまでも赤く、丸い、果ての無い檻。
見ようとしなければ見えない子供。
泣き叫んでも、その手をとってくれる人がいない子供。
後ろから赤黒い波が子供に向かって押し寄せていく。
ついにはとぷんとそれが子供を飲み込み、ついでその赤い球体はじわじわと子供の形を象っていった。
空中でふわふわと子供が浮かぶ。
「ル……!」
落ちるのではと焦り、駆け寄ろうとするが、予想よりもゆっくりとした動作でその場に落ちる。
落ちるというよりは降ろされたといった方が良いかもしれない。
ルキアは自分と繋いでいた手を離し、静かにその子供へ近付いていく。
ここから見える範囲では特に外傷はない。
ただ、叫び疲れたのだろうか、ぐったりとした様子で眠っていた。
彼女の手が横たわった小さな身体に触れようとするが、再び丸く透明な壁がそれを阻んだ。
「……助けたくて、抱き起こしたくて手を伸ばしても、いつもこの壁が邪魔をするんだ。
どうして助けられないんだって思っている内に、目が覚める」
――泣いている声が聞こえているのに。あんなに助けを必要としているのに。
「……でも、アッシュがいるなら……」
「この壁に手を」とルキアが自分を促す。
言われた通りに、ルークを守るようにしてある透明な壁に触れた。
その瞬間、パリンという音と共に壁に亀裂が入り、ヒビが入った箇所から順番に崩れていく。
弾け飛んだ欠片達は、そのまま空中にきらきらと消えていった。
「やっぱり、……助けて欲しかったんだ。アッシュに」
それを見届けたルキアが、先程とは違う微笑みを見せる。
自分は呆然と、壁を壊した自身の手のひらを見詰めた。
(ルークが、俺に助けを求めている……?)
――何故?
その理由が分からない。
いや、分かっているのかもしれないが、まだ確信が持てない。
悶々と考えを巡らせ始めた自分をよそに、
ルキアは疲れたように眠る子供の傍に座り、語りかけるように言った。
「……約束通り、迎えに来たよ……〝ルーク〟……」
そしてその手が身体に触れた時、辺りが光に包まれた。
その真っ白な世界で、自分は〝ルーク〟が隠していた記憶を知ることとなる。
PR