まず視界に入って来たのは、一面の紅。
鮮やかに彩ったその色が、焼き付いて離れなかった。
うっすらと瞳を開ける。
その行為が何を示すのかはすぐに分かったが、何分頭の中は真っ白な状態。
目の前にはコポコポと立て続けに出て来る泡が見える。
これが生まれたばかりの世界なのだと理解するには、少しの時間を要した。
――何だこれは?
――一体何がどうなっている? こうやって考えている己は何だ? 何故こんな所にいるのだ。
――ここはどこだ?
何もかもが分からない。
それを訴えるようにして、視界の隅に見え隠れしている紅色に焦点を合わせた。
――教えてくれ。
――己は何だ? お前は、誰だ?
目を少しだけ動かしてその紅色を見た。
すると紅色はびくり、と身体を強張らせた後、その瞳を大きく開ける。
そこに見えたのは紅とは違う色の、緑。
――あぁ、綺麗だ。
何も分からないはずなのに、何故かそう思った。
もっと見ていたいと思ったがそれは叶わず、紅色はあっという間にその場からいなくなってしまった。
――また、見たいな。
名残惜しく思う己の願いは、その数時間後に叶うこととなる。
あの変な液体から出されてすぐに覚えたのは〝呼吸〟。
ひゅう、と若干冷たい空気が身体の中を支配していく。
ゆっくりと吸って、吐いて、を繰り返す。
呼吸に慣れた後は、液体越しから覗いていた世界から開けた世界に、自然の色を取り込んでいく。
明るい、暗い、眩しい……だが、その中に先程の紅はない。
――ぺたり
色の洪水にも慣れた頃、ふいに己に違和感が走った。
その初めて味わう何ともいえない不思議な感覚につられて下を見る。
枝分かれたそれ。
しかもあろう事かそれは己から伸びている。
理解出来ずにそこを凝視していると、上の方から「それは〝腕〟と〝手〟というものだ」という音がした。
「ふむ……。やはりある程度の〝基礎知識〟は入れておくべきだったか……。
しかし、わしの〝声〟は無事聞こえているようだな」
瞬時に、それが〝声〟というものなのだと理解する。
そして己から伸びたそれらが〝腕〟と〝手〟だということも。
その声の元を辿ると、己よりも大きい人物が立っていた。
「おはよう、〝レプリカルーク〟。まずはこの世界に生まれ出でたことを、ささやかだが祝ってあげよう」
この人物が何を言っているのかは、まったくもって理解出来なかった。
己はそれよりも、教わったばかりの〝腕〟と〝手〟に夢中だった。
どうやらこれは、己の思う通りに動かせるようなのだ。
「〝立つ〟ことはさすがに無理か……。しかし事故だったとはいえ、まさか成功するとは……」
「スピノザ、何をしている。今はソレに悠長にかまけている時間はないはずだ」
手の開閉に必死になっていると、奥から別の声がした。
その声に反応したことから、目の前にいる人物が〝スピノザ〟だということが分かる。
そして。
「ヴァン様、しかし……」
――スピノザに声をかけたのが、〝ヴァン〟だということも。
「終ったのなら、牢にでも入れておけ。明朝にはソレと〝本物〟を入れ替えなければならんのだからな」
「……分かりました」
己のことをソレと言った声の元を確認しようと思ったが、残念ながらスピノザが目の前に立ちはだかっていた為、
〝ヴァン〟を見ることは出来なかった。(後にこの男によって自分が翻弄されていくというのに!)
その後、己はスピノザの手によって、先程とはまったく違う場所に移された。
――暗い。
ヴァンが言っていた牢とは、ここのことだろうか?
ぐるりと周囲を見渡す。まったくといって良い程何もない。
ここに移される前の場所には、飽きない程の色があったというのに。
しばらくここからは出られそうにない。
〝明朝〟になれば、出られるのだろうか?
では、それまでここにいることになるのか。
この、何もない部屋で。
見るものがない部屋の中で視線を虚ろにしていると、ふと気付く。
――己も、スピノザとヴァンのように声を出すことが出来るのだろうか?
先程教わった、己の手でその位置を確認する。
そう、確かここら辺りから声を出していた。
手と腕を己の意思で動かせるのなら、きっと声も出せるはず……と、そこに力を入れてみる。
「……ぅ……あ……」
――出るではないか。
しかしどうにも違う気がする。スピノザとヴァンは、もっとはっきりとした声だった。
何が違うのだろうかと懸命に試みていたら、ガタンという音と共に誰かが来る気配がした。
先の二人だろうか?
「……前の……身代り……レ……リカだ。よく見ておけ〝ルーク〟」
やはりヴァンの声だった。
しかし、もう一人は違うらしい。
そうして牢の前に立ったのは、眩しい程の紅色。
「……」
そうか。
この紅色は〝ルーク〟というのか。
あぁ改めて見ても、やはり綺麗だ。
「……ぁ……」
「これが……俺の〝身代わり〟……」
「……?」
――身代わり?
「……俺の代わりに……こいつが……」
〝ルーク〟はそう言って立ち上がり、牢から離れようとする。
――……ま、
その紅色を、もっと見ていたいと思った。
目を閉じても鮮やかなその色を。
――待って!
「……ぅう……あ!」
今まで(と言っても短い時間だが)で一番必死になったかもしれない。
そのお陰か、何とか紅色を引き止めることに成功した。
しかし――、
「俺と同じ顔で喋るな!〝気持ち悪い〟!!」
と、己の声を上書きするような形で叫ばれてしまう。
そしてそのまま〝ルーク〟はいなくなってしまった。
――〝気持ち悪い〟とは、どういうことだろう。
紅色の言った意味が分からずに、しばし呆然としていると、
先程奥から聞こえていた声の主のヴァンと、先の部屋にいたスピノザが何事かを話しながら目の前に現れた。
「……これが?」
「えぇ。マルクトで秘密裏に研究されている暗示譜業機関です。
まだ試作段階のようですが、試してみる価値はあるかと」
「記憶も消せて暗示もかけられる……か。末恐ろしい物があるものだな」
そうしてヴァンの手からシャラン、と音を立ててぶら下がったのは、金色に光る装飾に囲まれた小さなペンダント。
その中央には真っ赤な、先程の紅に近いような真紅に色を染める球体。
その色に〝ルーク〟を重ねた己は、それを凝視してしまう。
「……お前はここで起こったことを完全に忘れる。そして私に従順に従う〝駒〟となるのだ」
――ゆらゆらと目の前で光る、紅い、色。
「良いな?〝愚かなレプリカルーク〟よ」
そこで己の記憶は途絶え、それ以降は新しい〝記憶〟が上書きされていくことになる。
〝ルーク・フォン・ファブレの身代わり〟という、悲しくも己にとっては大切な記憶が。
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