※注:捏造設定含む。
真っ白な世界に新しく植え付けられる記憶。
そこは自分の場所ではないと、作られたばかりの記憶の隅では分かっていた。
『記憶を失ったルーク様は、以前と比べて別人のようだわ』
――うるさい。
『以前は賢く、謙虚で、凛々しくもあられたのに……』
――悪かったな。そんな風になれなくて。
その台詞はもう耳にタコが出来るぐらい聞いた。
どこへ行っても、何をしていても囁かれるその言葉。
そういったことはせめて、自分がいない所で言って欲しいものだ。
身を潜めるようにして立った壁の向こうで囁かれるメイド達の小言。
それに聞き耳を立てて腐っている、そんな自分の名前は〝ルーク・フォン・ファブレ〟という――らしい。
――というのも、何でも自分はどこかの国の誰かさんに誘拐された後、
そのショックで生まれてからの記憶を失ってしまったということだった。
その所為か今までの記憶を持たない自分は、自分の名であるソレを聞かされた時も、
他人の物のように思えたのをうっすらと覚えている。
――実際、今も実感はしていないが。
(……こんなことになるのが分かってたら、こっちから逃げてたっつーの……)
壁の向こう側から聞こえていた自分に対する小言は、いつの間にか話題が逸れていた。
自分が不埒な連中から無事助け出されてこの屋敷に戻ってからというもの、周囲は毎日のようにこうやって嘆いている。
今までの記憶を失った上に、歩くことすらままならない状態だった自分を悲しみ、
記憶を失う前の自分が、どれ程聡明で賢かったのかを称えた上で、それが出来ない自分を哂うのだ。
自分は言葉を話すことすら〝忘れて〟いた為、まずはそれを叩き込まれた。
身の回りのことは子守役として使用人のガイが面倒を見てくれていたお陰で、
彼にだけは気を許せるようになり、また、彼も自分を嘆くことはなかった。
――その奥に隠された冷たい炎は別として。
しかし、それ以外――例えば、基礎知識だと称してあれもこれもと教え込もうとして来る家庭教師に加え、
記憶を失う前の自分と約束を交わしたのだと言うナタリアや、屋敷の人間達。
強いて言うなれば、自分に関わったことのあるほぼ全員が自分の状況を憂えていた。
今思えばそれは至極当然のことなのだろうが、そんなことは一切覚えていない自分にとっては、
ただ煩わしいだけだった。
そしてこの生活を続けていく上で、違和感を覚えることがある。
それは、その誘拐事件がきっかけで過保護になってしまったという母親と、
それとは逆に、自分との距離をさらに置くようになったという父親のことだった。
最初はどこの親もそんなものなのだろうと思っていたのだが、
ガイが読んでくれた絵本の内容から、そうではないということを知る。
そこに描かれていたのは、溢れんばかりの〝温かい愛情〟。
片方からは過剰な程の愛を受け、片方からは愛情の〝愛〟の字も見当たらない程の淡白さ。
そんな歪んだ感情を受けている自分と、絵本の中の主人公を比べて疑問を抱いたこともあった。
しかしその疑問はすぐに失笑へと変わる。
――比べようとしている自分は、屋敷内の人間達と同じではないか。
(それに……いくら記憶がないっていっても、俺は俺だ)
記憶を失っていても、己は己だと自分では分かっているのに。
それに反するように周囲の視線は、記憶の向こう側にいるもう一人の自分にしか目を向けないでいる。
それは幼馴染である二人……自分の世話を焼く使用人と、
毎日かかすことなく自分の下に通って来る幼い姫にも言えること。
確かに記憶を失ったことは残念なことだろうし、自分だって惜しいと思う。
記憶障害という病気だから、「完治して欲しい」と祈る気持ちも分かる。
だけど自分は、「過去のことなんてどうでもいい」と思っているのだ。
――そんなことより、〝今〟を生きている〝俺〟を見て欲しい。
だが、そんな自分の小さな願いなど、こんな状態では叶うはずもない。
「ルーク様。お勉強のお時間です」
窓越しに見える変わらない日常に溜息をついていると、
毎度ながら寸分違わずに声をかけて来るメイドの声に再び息を深くする。
勉強は、嫌いな訳ではなかった。
むしろ自分には知らないことがありすぎる為、それを埋めたいという思いはあった。
しかし、そんな細かいことをいちいちガイに聞くのも気が引けたし、
かといってそれを家庭教師達に聞けば、「こんなことも知らないのですか」の一点張り。
そして「以前のルーク様は……」と始まり、覚えてもいない過去話を延々とされるのだ。
何より、〝知っているのが当たり前〟のことを覚えても、誰一人として褒めてはくれない。
例えそれが自分の知らない知識だったとしても、周囲にとっては〝知っていて当然〟のことなのだ。
ただ義務的にそれらを詰め込む作業。
それが煩わしくて、勉強の手が疎かになってしまっただけ。
隣では相変わらず、基礎が固まっていない所為で理解しがたい家庭教師の講義が続いている。
これならまだ自分が自主的に調べるか、ガイが時々してくれる外界の話を聞いていた方がずっと楽しい。
そう考えている内に、思わず「はぁ」と溜息をついてしまった。
しまったと慌てて口を塞ぐも、時すでに遅し。
それを発端に今回も始まった見も知らぬ自分の昔話を耳に流しながら、
その中にある数少ない単語を拾い集め、どうにかこうにかやり過ごした。
家庭教師が部屋から退室した後は、必死に拾った新しい知識を頭の中で反芻する。
だけどそれはあくまでも、〝知識〟として保管されるだけ。
それはそうだ。
何しろ自分は、この屋敷のある敷地内だけでしか行動が許されていない。
例えば、教本や絵本などに出て来る〝国〟や〝海〟など、名前だけは知っていても、現実とは結び付かない。
〝海〟というものがどれ程大きいかを説明されても、自分の行動範囲内でしか想像が出来ないのだ。
決まった時間、決まった範囲内で起こる同じような日常。
記憶を失った時から義務付けられている日記にも、同じような内容が繰り返し書き込まれていった。
こんな内容なら書いても書かなくても同じだと思う。
いつか色々なことを書き込める日が、本当に来るのだろうか?
(それに……)
今も心に引っかかっている、あの出来事。
それは、自分がここに軟禁されて半年が過ぎたある日のことだった。
最初こそ飽きることのなかった屋敷の中も、代わり映えのない景色にさすがに飽きて来た頃。
そんな日常の些細なストレスが祟ったのか、それとも誰かに移されてしまったのかは分からないが、
ナタリア達と庭で遊んでいた時に意識を失った。
何のことはない、風邪を引いて高熱を出して寝込んでしまったのだ。
『……下がらないなぁ、熱』
『ガイぃ……頭、痛い……』
『氷溶けちまってるな……。換えて来るからちょっと我慢してろ』
苦笑を浮かべたガイが、すでに中身が液体と化した氷嚢を持って部屋を出て行く。
ばたんと扉が閉まると同時に、急にしんとする部屋。
普段なら心寂しく思う所だが、高熱の所為か何も考えられない。
しかもそれに伴う頭痛の所為で大人しく眠ることも出来ず、朧気な視界の中で視線だけが辺りを彷徨っていた。
そこにふと、普段とは違うものが映り、視線をそれへと合わせる。
いつもの風景が見えるはずの窓辺に、赤いものが混ざっていたのだ。
揺れる視界の中でじっくりと目を凝らす。
ちらちらと見え隠れしているのは、つんと立ち上がった赤い髪。
少し背丈が足りないのだろうか、足場を探しているようにも見える。
そのことから察するに、自分と同じぐらいの歳の子供のようだった。
(……あれ? でも赤い髪って……)
髪に赤色を宿しているのは、〝キムラスカ・ランバルディア王国の王族である証〟だと、
家庭教師から教わったのを思い出す。
(俺以外にも……いるのかな?)
何しろ自分の行動範囲は狭い。
ひょっとしたら自分が知らないだけで、自分と同じような年頃の子が他にもいるのかもしれない。
(もしそうだったら……、〝友達〟に……なりたいなぁ……)
しかしその淡い感情は、窓辺でせわしなく動いていた赤い髪が足場を見付け、
その窓から顔を覗かせたことで霧散する。
(……俺と……同じ……顔!?)
幸い、熱に浮かされて薄目だった所為か、向こうはこちらの視線に気付いていない。
そのお陰でじっくりと確認することが出来た。
自分よりも濃い赤い髪と瞳の色。
その二つを携えているあの顔は、間違いない。
――あれは、自分の、顔だ。
(何で……?)
自分に兄弟などいない、そう聞かされていた。
両親や屋敷の人間の行動から隠し子がいるとは考えられないし、
ましてやそんな不振な素振りは一度も見たことがなかった。
では、目の前にいるあの子は一体何者なのだろうか?
――声をかけたい。
(なぁ。どうしてお前、俺と同じ顔をしてるんだ……?)
起き上がろうとする気持ちとは逆に、掠れていく視界。
何とか身体を起こそうと奮闘していると、ガイが新しい氷嚢を持って部屋に戻って来た。
そして、ちょうど見舞いに来ようとしていた母親も一緒に。
赤い髪の子は、ガイ達が自分を甲斐甲斐しく世話をする姿を見るなり、さっとその場からいなくなってしまった。
――待って! 行かないで!
後を追いたいと思ったが、この有様では諦めるしかない。
そして、ただでさえ高熱と頭痛で辛いというのに頭をフル回転させた所為か、
意識がついに耐え切れなくなり、気を失うように眠りについてしまった。
それ以来、赤い髪をした子供は自分の前に姿を現すことはなかった。
「あの時……からだな……」
『皆、俺を見てはいない』、『俺じゃない誰かを見ているんだ』と思い始めたのは。
ひょっとしたらあの赤い髪をした子供は、自分の気の所為だったのかもしれない。
風邪を引いたことによる高熱が見せた幻影だったのかもしれない。
何度もそう思おうとした。
だが、相変わらず周囲の視線は自分の向こう側を見ていて。
世話役であるガイですら、ちゃんと自分を見ていない。
時々、自分を見詰めるその瞳に憎悪を宿すことがあっても。
――向けられる憎悪すら、自分のものではない。
そんな環境に、だんだん不安が募って来る。
じわじわと何かが染み渡るように、少しずつ、少しずつ塗り潰されていった。
心は閉ざされ、荒んで行く。
(……俺の気持ちなんか、誰も分かっちゃくれない)
それが分かっていた自分は、周囲に気付かれないように、表には出さないように。
静かに、静かに、不安に思う気持ちに蓋をした。
その代わり、〝敵意〟と〝傲慢〟という棘を盾にして。
そんな時に出会ったのが、自分に剣術を教えてくれている〝ヴァン師匠〟だった。
師匠はちゃんと自分を見て指導してくれる。
周囲とは違って自分から目を逸らすはことなく、真っ直ぐに。
悪いことをしたら叱ってくれるし、良いことや技が上手く出せた時にはちゃんと褒めてくれる。
そんな風に接してくれるのは師匠だけだった。
だから自分が師匠に懐くのに、そう時間はかからなかった。
(師匠がいたからここまで……ってあーもう! やめやめ!)
「退屈だから、こんなこと考えちまうんだよ!」
誰も居ない廊下で、がりがりと頭を掻き毟る。
その日は運悪くヴァン師匠、そしておまけにガイまでもがどこかに出かけていた。
聞けば、二人共が二週間程度屋敷を留守にするようだった。
「っつーか師匠は分かるにしても、ガイまで居ないってどういうことだよ……」
自分にとって唯一の退屈しのぎである二人が居ない。
それはかなりのストレスであった。
仕方なしに屋敷内を散歩しようと決めて外に出る。
といっても屋敷内の道は全て覚えてしまっている――が、かといって部屋に篭るつもりもない。
「あーぁ、つっまんねぇの……――ん?」
見慣れた通路を歩いている途中、盛大に欠伸をしながら伸びをした拍子に視界に入ったもの。
それは普段、立ち入ることを許されていなかった部屋だった。
普段は気にもしないのに、何故か急激にそこが気になった自分は、
うずうずと沸いて来る好奇心に勝てず、そろりとその部屋に近付いた。
後に、この部屋に入ったことを後悔することになるとも知らずに。
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