今にも消えそうな、危うい世界。
最初に知ったのは、絶望だった。
周囲には人の気配はない。
何度も辺りを見回して、それを実際に目で確認する。
そのまましばらく様子を窺ってはみたが、不思議なことに人っ子一人通りはしなかった。
それに安心した自分は引き締めていた気を若干緩め、禁断の部屋の扉を開くべくドアノブに手を乗せる。
ゆっくりとそれを回して扉を開けたその先には、
規則正しく置かれている本棚に目一杯敷き詰められた書物達があるだけだった。
「何だ……ただの書庫じゃんか……」
この先には一体何があるのだろうかと、期待を膨らませていただけにショックは大きい。
その思わぬ裏切りに、がくりと肩が落ちる。
だが、そこで小さな疑問が急速に湧き上がった。
――ならば何故、ただの書庫に立ち入ることを禁じていたのか。
その疑問に、考えられる答えは一つ。
「〝大事なもんがあるから〟だよな♪」
こんな時には賢く回る自分の頭に感謝しつつ、早々に辺りを探り始める。
自分は〝宝探し〟や〝かくれんぼ〟といった類の遊びは、得意中の得意であった。
今回もその能力は如何なく発揮され、あっという間にそれらしい所の本と本の隙間に、
隠されるようにしてあったスイッチを見付ける。
「見ーっけ♪」
見付けた嬉しさから、勢いにまかせてそれを押す。
すると、隣にあった本棚が静かに横へとずれ、人一人分程の隙間が出来た。
(……隠し部屋だ!)
再び湧き上がって来た高揚感。
人の気配がないことは分かっていたが、念には念を、と気配を殺しながら中を覗きこむ。
そうして誰もいないことを確認し、静かに中へと入った。
近くに先程と同じようなスイッチがあるのを見付け、このスイッチが開閉の役割を果たしていることが分かると、
とりあえず扉を閉めておこうと再びそれを押す。
「……って、また本かよ……」
向き返った自分の後ろで隠し扉が閉まる音が聞こえる。
目の前には先程と同じような本棚がずらりと並んでいた。
しかし、ただの本をこんな風に保管するものだろうかと疑問に思い、
適当にその辺の本を一冊手に取り、パラパラとページを捲ってみる。
そこに書いてあったのは見たこともないような道具の数々。
挿絵から察するに、それらは恐らく拷問道具と呼ばれる物。
「ぅぇ……」
好奇心から読み進めていたが、エスカレートしていくグロテスクな絵に段々気分が悪くなり、ついには途中で放棄した。
勢い良くそれを元の場所に戻して気を取り直した後、もう一度周りの本をよく見てみることにする。
そこで気付いたことは、一見それらは大雑把に置かれているように見えるが、
実はそれぞれが区別されて置かれており、なおかつ整理整頓もされているようだ――ということだった。
そしてそのほとんどが、重要機密がまとめられた物や他国の内部事情が書かれた書類など、
世間的に言われている所の、いわゆる〝禁書〟と呼ばれているものばかりだったのだ。
「……すげぇ……」
見たこともない本達に、気持ちが昂ぶるのが分かる。
何しろここには、自分の知らない知識が大量にあるのだ。
さらに言うならば、〝屋敷の人間ですら知らない〟ようなことが。
――これは、自分を蔑ろにしている奴らの度肝を抜くチャンスかもしれない。
そう考えた自分は、少しでも知識を吸収しておきたいと本棚をざっと見渡した。
数ある書物の中で、何故か気になった〝フォミクリー〟という単語が書かれた本を手に取る。
著者名は掠れて見えなくなっていたが、微かに〝バルフォア〟という字だけが読み取れた。
ページ中の本文には案の定難しい言葉が並び、また大量に綴られていた。
その中でも何とか読める単語を拾っていきながら、脳内で言葉にする。
(……れ……ぷ……り……か、……レプリカ?)
だが、それでも知識が追い付かないと踏んだ自分は、一度隣の書庫へと戻り、
誂えたようにしてあった分厚い辞書を引っさげて、再びその本を読み解くことに専念した。
最初は書かれている単語を理解することで精一杯だったが、
いつしか自分はその暗号のような単語達を解読していくことに熱中し始めていた。
そうして僅かに差し込む光がオレンジ色に染まり始めた頃、
そこで初めて、その本を読み始めてから結構な時間が経っていることに気が付く。
(さすがに……、そろそろ戻らないと騒ぎになるだろうな)
名残惜しく思ったが、いつまでもここにいる訳にもいかない。
何しろ自分を探しに回られてしまっては後々面倒なのだ。
どこで何をしていたのかと煩く詮索して来る執事とメイド達をあしらうのは、考えるだけでも疲労を覚える。
後ろ髪を引かれる思いではあったが、ひとまず今日はこの場を去ることにした。
(また明日も来てみよう)
どうせ退屈凌ぎとなる二人はしばらく居ないのだ。
明日になれば警備の者が居るかもしれないが、例え居たとしても交代の時間の隙をつくなりして潜り込めばいい。
そう考える程、自分はすっかりその書物に熱を入れてしまっていた。
次の日から早速、書庫室へと向かう。
さすがに今日は警備兵がいるだろうと、近くの壁に張り付いて書庫室への扉を覗き込んだが、姿は見当たらない。
タイミングが良かったのだろうかと思いながら、難なくそこを通過する。
しかし次の日も、またその次の日も、警備兵がその扉の前に立つことはなかった。
何かがおかしいとは感じていたが、自分はそれよりも読みかけている書物の方が気になり、
警備の不備など頭の隅に追いやってしまっていた。
通う度に増える知識。
読み進めていた書物に飽きた時は、気分転換にと他の書物にも手を出すようになる。
自分はその部屋の中でだけ、貪欲に知識を求めた。
何故ならここは、〝記憶を失う前の自分すら知り得なかった場所〟だから。
――ここで得た知識は、自分だけのもの。
そうやって自分を優位にしたかっただけかもしれない。
そして書物を読み解いていくにつれ、その思いはさらに高まっていった。
〝フォミクリー〟、〝レプリカ〟、〝被験者《オリジナル》〟、〝超振動〟、そして〝同位体〟。
少しずつ理解出来て来たそれらは、自分の思考をかき乱すには充分な要素だった。
それらは無意識に、自分の処遇をレプリカという存在に重ね始める。
(……もし、……俺が〝偽者〟で……)
記憶を失った後の自分はここに書かれている〝レプリカ〟という存在によく似ていた。
見た目はそっくりでも、中身はまったく違う作り物のそれ。
自然と、脳裏に風邪で寝込んでいた時に見た、自分にそっくりな赤い髪の子供の映像が浮かぶ。
(……あの時の子が〝本物〟だったら……)
――記憶を失う前の自分が〝被験者〟だとしたら?
背後からえもいわれぬ不安が自分を襲う。
小刻みに身体が震え始め、それ以上に鼓動が早まっていく。
――皆が、俺を見ようとしないのは。
(怖い、怖い)
――皆が、俺じゃない誰かを見ているのは。
(止めろ、止めて!)
――〝自分が偽者(レプリカ)だから?〟――
ぞわりと自分の背中を撫でていくのは――絶望。
「そんな馬鹿な」と否定する気持ちと、「ああ、だからか」と半ば諦めている気持ち。
両極な感情が混在し、混乱する。
――くだらない。
くだらない想像だ。
自分の身勝手な妄想だろう?
だけど、どうして。
どうして、涙が出るんだろう。
「――――っ!!」
堰を切って溢れたそれを止める術が見付からない。
そしてそれを煽るように、次から次へと襲い来る不安。
ここにいる自分の存在自体が否定される。
それは己にとって、とてつもなく怖いことであったが、非情にもそう考えた方が全ての辻褄が合うのだ。
(嫌だ……嫌だ、嫌だ嫌だ!)
――ズキン
苦悩する自分を追い込むかのように、不定期に起こる頭痛がこめかみを直撃した。
同時に自分の視界にノイズがかかり、その隙間から誰かの声が聞こえて来る。
――『……!』――
――『……と同じ……で……るな! ……持……い!!』――
――『俺と同じ顔で喋るな! 気持ち悪い!!』――
パシン、という音と共に聞こえたのは、自分と同じ声。
頭痛に耐えかねた膝が、がくりと折れる。
顔はすでに、涙と鼻水でぐちゃぐちゃだ。
混乱する思考の中で、「早く顔を洗わないと」という場違いな声が聞こえた。
これが何の記憶かは分からない。
分からないが、これは思い出してはいけない記憶だということだけは分かる。
思い出してしまったら、自分は自分でなくなってしまうような。
そんな風に思わせるこの記憶。
――怖い。
(……忘れ……よう……)
そうだ。
忘れてしまおう。
こんな〝記憶〟はいらない。
ここで取り込んだ〝知識〟もいらない。
大丈夫。
自分にはちゃんと、〝ルーク・フォン・ファブレ〟という名前がある。
周囲が自分を見ていなくとも、この名前がある限り、これが与えられている限り、自分の居場所は確かにここにあるのだ。
(忘れ、るんだ……)
よろよろと立ち上がり、書庫室を後にする。
――早く部屋に帰りたい。
そう思いながら何とか歩を進めた。
しかしすでに限界がきていたのか、自室へと続く長い廊下の途中で意識が薄れ始めていく。
浮くような感覚の中で、思うことはたった一つ。
(俺……は……、俺……だ)
それ以外の、何者でもない。
――例え自分が、誰かの複製品だったとしても。
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