初めて見る景色。
溜め込んでいた知識が、現実と繋がった瞬間。
――困ったことになった。
この現場にいれば誰だってそう思うだろう。
確か俺は先まであの広くて狭い屋敷の中で過ごしていて、
行方不明になった導師を探さなきゃいけないって言ってたヴァン師匠と一緒に、剣術の練習をしてたはずなんだよ。
剣術の練習は、毎日変わることのない日常の中で〝唯一〟の楽しみだったんだ。
それが何だ。
急に眠気が差したと思ったら、やったら胸のでか――豊かな女が侵入してきてさ、さらには師匠を殺そうとしたんだぜ?
俺はそれを食い止める為に女の懐に飛び込んだ。
そしたら俺と女の間で電気が走ったような振動と光が起こって、あまりの眩しさに意識を失って……
目を覚ました時には空はもう真っ暗で、辺り一面に白い花が咲いている所に飛ばされていたって訳だ。
――なぁ?
『困ったことになった』って、お前もそう思うだろう?
「私はティア。どうやら私とあなたの間で〝超振動〟が起きたようね」
――――≪チリッ≫――――
その言葉を聞いた瞬間、頭の中にノイズが走る。
一瞬、「いつもの頭痛か?」と思ったが、それとは少し違うようだった。
不思議に思いながら、目の前の人物に視線を向ける。
師匠を殺そうとし、自分をここに飛ばしてくれた少女の名は〝ティア〟と言うらしい。
「ちょうしんどう? 何だそりゃ」
彼女の言った言葉の意味を問いながら、頭の中で復唱する。
何かが引っかかったのだ。その意味を、自分はすでに知っているような。
(あれ? どこでだったっけ……)
首を傾げている内に彼女から「超振動とは〝同位体〟による共鳴現象のことだ」と説明された。
その意味を聞いて、やはりどこかで覚えた知識だと思う。
しかし今は、それをどこで覚え知ったのかを思い出している場合ではないようだ。
「とりあえず、この渓谷を抜けて海岸線を目指しましょう。
街道に出られれば辻馬車もあるだろうし、帰る方法も見付かるはずだわ」
「……へぇ、そういうもんなのか」
よく知っているなと感心するが、ひょっとしたらそれは普通のことで、自分がおかしいだけかもしれない。
何故ならば、彼女に「向こうに海が見えるでしょう?」と言われるまで、
自分は〝海〟というものに気付かなかったからだ。
「これが……海、なのか……」
それを何と表現すれば良いのだろう。
目の前にはただ広がる大きな、どこまでも大きな――
上から降り注いでいる月の光が揺れる波に反射し、きらきらと光っている。
以前ガイに海とは何かを聞いた時には、『池よりも大きな水溜りのようなもので、怖いものだ』と言っていたが、
それとはまったくもって比べ物にならないし、怖くなどない。
(ガイの嘘吐き……全然違うじゃんか)
太陽の下ではまた違った色を放つかもしれないが、今見えている段階では濃紺。
その先はどこまで続いているのだろうかと思う程、見える範囲一杯までそれが続いている。
そこでようやく自分の中にあった知識の〝海〟と、現実にある〝海〟とが繋がったのだ。
(すげぇ……綺麗だ……)
それが繋がると同時に、言葉にするのが難しい程の感動が湧き上がる。
――そうだ。自分は今〝外〟にいるのだ。
ということは、この感動はまだまだたくさん味わえるはず。
(今まで〝見たことのないもの〟が、この目で見えるんだ)
それはとても、貴重な時間に思えた。
屋敷に戻ってしまえば、それも成人の時までなくなってしまう。
それを考えると、目の前にいる誘拐犯――ティアには少し感謝をしなければならない。
「さぁ、行きましょう」と言う彼女の言葉に促され、
高揚した気持ちを静められぬまま、足元に落ちていた木刀を腰の鞘に戻した。
次にやって来るであろうもの達に期待を高めながら。
(それにしても……)
自分は確かに、今まで屋敷で育っていたから知らないことは多々あった。
例えばそれは、魔物との実戦であったり、土地勘のなさであったり、買い物の仕方であったりする。
だから初戦では戦い方が分からずに戸惑ったし、
馬車がキムラスカではなくマルクトへ向かっていることも分からなかったし、村の店主には泥棒扱いされたりもした。
さすがに泥棒扱いされたことには腹が立ったが、本当に自分は〝知らなかった〟のだ。
と言った所で、誰も自分の言うことを信じていないことぐらい、分かっていたけれど。
その後何とか周囲の誤解を解き、そこで何故か師匠が探しているはずの〝導師イオン〟とも出会った。
ついでに、その導師を守る立場にある導師守護役だという人物や、
マルクト帝国の〝ジェイド・カーティス大佐〟といういけすかない人物にも。
そして「疑ってすまなかった」と謝罪する宿の亭主の好意により、こうして一泊することになった。
ベッドに横たえた身体がぐったりと沈む。
憧れていた世界へ一気に放り出された反動かもしれない。
じわじわと肉体的なものに加えて、精神的疲労も押し寄せて来る。
今まで自分が動ける範囲は屋敷の中だけで、こんなに外を出歩いたのは初めてだった。
初めの内は、次々と移り変わる周囲の景色を見ながら気を紛らわせていたが、それも長くは持たなかった。
さらに、自分が履いている靴は長距離には向いていない上に、その為の筋力もついていない。
今の所そんなに酷くはないが、かかとに違和感がある。きっと豆が出来ているのだろう。
だが、くじける訳にはいかない。
明日は食料犯を突き止める為に、〝チーグルの森〟という場所に行くことを決めたのだ。
彼女には飽きられてしまったようだが、今の内に少しでも知識の幅を広げておきたい。
とりあえず初めて見聞きする物や場所は、出来る限り頭の中に入れておきたいのだ。
(それにしても……だ)
初めて屋敷以外の人間と出会ったが、ここまで高圧的な態度の人物と会ったのは初めてだ。
自分が王族だということを知らない者(先程出会った人物)は仕方がないとしても、問題は同行している彼女。
向こうは〝匿われていた〟と知っていたから、自分の素性は知っているはず。
日頃からこういう態度をとっている為に忘れ去られがちだが、
自分はあくまでも〝キムラスカ王国の第三王位継承者〟にあたるのだ。
家庭教師から〝常に正しく、凛々しく、胸を張って〟と教えられており、今日までその通りに振舞って来た。
だがそれが、どうやら彼女含む周囲は気に入らないらしい。
(俺が間違ってんのか?……教えられた通りにやってんだけどな)
この態度を取るにはもう一つ理由がある。
例えば、屋敷に来る大抵の者達は自分に傅[かしづ]き、媚を売る。
横柄にも見えるこの態度は、それをあしらう為の業の一つでもあったのだ。
しかしここではそれは通用しないようだ。
自分がその態度をとる度に彼女を怒らせ、周囲からは奇異の視線を送られた。
自分にはまだ、周囲に怒られている理由が分からない。
だが、屋敷にいた時とは違う怒られ方なので、少し面白かったりもするのだが。
(もちろん、普通に腹は立つけれど)
自分が買い物の仕方を知らず、彼女に怒られている場面を思い出し、何故だか笑みが浮かぶ。
(あの現場を屋敷にいる白光騎士団達が見てたら速攻で捕まるな……)
潜った布団の中でくすくすと笑みを漏らす。
だが、その態度を改めさせることはあえてしようとは思わなかった。
何しろそうやって〝自然体〟で接してくれるということ自体、自分にとっては何よりも新鮮だったのだ。
(もう少し様子を見てから……見極めるか)
――〝敵〟か、〝味方〟か。
それはあの屋敷にいる間に身に付けた防衛術。
――屋敷にいた奴らと同じように、上辺だけで接して来るのなら〝敵〟。
――自分と同じ目線に立って、本音でぶつかって来てくれるのなら〝味方〟。
(さぁ……どっちかな……?)
そうしてほくそ笑んでいる自分に、この後、運命的な出会いが待っていようとは思ってもいなかった。
――――≪ザザッ……≫――――
手に残る感触に狼狽している自分の目の前で、襲いかかって来た兵士がゆっくりと倒れていく。
――何だ、これは。一体、どうなってるんだ?
俺は今忙しいんだ。
俺には分からないことばかりなんだ。
次から次へと溢れ出して来る情報と、自分の知識を繋ぎ合わせることで精一杯なんだよ。
外に出て来たばかりで、頭ん中がまだここに順応してないんだよ。
ここに来て〝戦争〟だの〝和平〟だのと言われても、これまでの俺にとっては本の中でしか知らなかった世界だ。
あのいけすかない軍人と彼女達の自分の扱いにも、相変わらず苛々させられている。
何しろ自分が疑問に思ったことを聞いても、大事なことは何一つ教えちゃくれない。
それにあの森で、あの魔物の――ライガの卵を平気で壊せる奴らだ。
『外の人間だから』って期待してたけど、結局こいつらは〝敵〟だった。
ああ、だけど〝導師イオン〟って奴は別。
あいつは〝味方〟だ。(どうしてそう思うのかは、分からないけれど)
新しい言葉に振り回されっぱなしで、馬鹿にされまくってるけど。
だけど……、だけどこれだけは知ってるぞ。
――〝生きて、生きようとしているもの達を、傷付けてはいけない〟
これは俺も理解してる。
生きていく為、例えば食料とかの必要最低限の殺生は仕方がないけれど、
それ以外の無駄な殺生はやっちゃいけないんだ。
誰だって怪我したら痛いし、それに怪我をさせた方だって痛いもんな。
あまつさえ〝殺す〟なんて。
前に自分の部屋にこっそりと通っていた猫が衛兵達に殺された時は、物凄く悲しかった。
本当は、魔物だって殺したくない。
ティアにそう言ったら、「だからあなたは甘いのよ」なんて言われたけれど。
あいつらだって、生きてるんだぜ?
生きようとしてるから、俺達を襲うんだろう?
ただそれだけなのに、こっちが勝手に判断して殺しちまっても良いのか?
セイタイケイ?ってやつに影響を及ぼさないのか?
(やっぱり、俺が間違ってんのかな……)
それ以降は、魔物達を殺すのは自分が生きる為の必要最低限に留めようと思っていた。
そう思って、いたのに。
――なのに。
「さ……刺した……。俺が……殺した……?」
先まで動いていた兵士がぴくりとも動かなくなっている。
――嘘だろう?
がたがたと身体に震えが来る。
肉塊を突き通した感触が、手のひらに生々しく残っている。
そのすぐ傍でジェイドとティアが何かを話しているのが聞こえた。
お前ら何でそんな平気な顔していられるんだ?
先まで生きていたものを、よりにもよって人を、人間を殺しちまったんだぞ?
俺、人殺しになっちまったんだぞ?
それも〝軍人〟が為せる業か?
〝軍人〟になると、殺人が当たり前になるのか?
――分からない。
――分からない。分からない。分からない!!
(分かりたくもない!!)
叫ぶように頭を振ると同時に、頭上から声が落ちて来た。
「人を殺すことが怖いなら、剣なんて棄てちまいな! この〝出来損ない〟が!」
耳に響く怒号と共に、降り注ぐのは氷塊の嵐。
(……聞き間違い……か?)
不意をつかれ、薄れ行く意識の中で聞こえたのは自分と同じ声。
そして一瞬だけ視界に捕らえた――紅色。
(――っ!? あれ……は……)
閉ざされていた記憶の蓋が、僅かに開いた瞬間だった。
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