目が覚めた時から、新しい世界が始まった。
まるで生まれ変わったみたいだなと、心の中で笑った。
――嫌な奴だけど、目が離せないんだ。
自分よりも濃い紅い色。
自分よりも濃い緑の瞳。
自分と同じ顔のはずなのに、まったく違って見えるその表情。
人はおかしいと笑うかもしれない。(それ以前に自分は〝人〟ではないが)
自分とそっくりな存在を、見ようによっては双子のような存在を。
そう、よりにもよって、自分の被験者を……――
雪が降る。
視界を埋めていくように、ふわふわと降り積もる。
毎日のように続く戦いで疲労した身体を休めようと、アニスが提案した。
その意見に異議を唱える者などいるはずもなく、つかの間の休息をケテルブルクで過ごすことになった。
ホテルではくつろげるようにと、一人一人に個室を与えられた。
自分も一度は宛がわれた部屋に行くものの、どうにも落ち着かず、再び部屋を出る。
ジェイドは何事かを調べているようだし、ガイは街にある譜業の館に顔を出しに行っているようだ。
女性陣はといえば、スパに寄った後にホテル内にあるカフェでお茶をする予定らしい。
それに混ざるわけにもいかない自分は、手持ち無沙汰になってしまう。
このまま呆けて過ごすのにも気が引けたので、お腹を冷やさないようにとガイが用意してくれたコートをはおり、
行く当てもないままふらりとホテルを出ることにした。
ざくざくと雪を踏みしめる音が周囲に響く。
上を見れば真っ白な空から、同じく真っ白な雪が降り続けていた。
(そういえば……ここに来て初めて、これが〝雪〟だって知ったんだよな)
はぁ、と息を吐くと、もわもわと綿のように広がりながら空中に消えていく。
どうして雪が降ると、こんなに静かに思えるのだろうか。
いつもなら子供達が遊んでいるであろう公園は、その日は何故か閑散としていた。
遊び場を変えたのか、ただ寒いから家に閉じこもっているのか、はたまた別の用事があったのか。
何にせよ考え事をしたいと思っていた自分には、その静けさが有難かった。
そこにあるベンチの一つに腰をかけ、深く息をつく。
途端、自分の身体にぐっと疲労がのしかかってくる。
――〝自分は変わる〟。
そう決めた時から、そうなるようにと行動したつもりだった。
しかしそれは、本来の自分の上に仮面を付けていただけに過ぎなかった。
――〝偽善者〟という仮面を。
全てを知っていながら、今もそれを隠し続けている。
結果的に自分は周囲を騙していることになるのだ。
ジェイドが自分の身体を心配し、いずれ起こり得るそれを防ごうと躍起になってあれこれ調べているのも知っている。
そしてティアが、自分が今どういう状態になっているかを知っていることも。
ガイから出る「卑屈になるな」という言葉が、同時に彼自身にも向けられていることも。
ナタリアが自分とアッシュの間で揺れ動いていることも。
アニスが悲しみを押し殺して、必死で明るく振舞おうと努めていることも。
――全部、全部知っている。
だが自分は、それを隠して何も知らないという演技をし、周囲の視線が自分に集まるように仕向けている。
結局、怖いだけなのだ。
皆に見捨てられてしまうことが。
周囲の視線が他へと移ってしまうことが。
自分の唯一の居場所が、記憶が、奪われてしまうことが――ただ怖くて。
以前、仲間達にはあんなに手酷く裏切られたというのに、自分はまだ彼等や彼女達に依存し続けている。
(こんなつもりじゃ……なかったのにな)
これまでに起こった悲劇も、自分の浅はかな行動と、隠していた記憶から逃げ続けた結果に起こったこと。
悪いのは、全て自分。
後悔しても仕切れないほど、償えと言われても償えないほどのそれ。
――だからあの時、消えてしまうつもりだった。
――あのレムの塔の上で。
まだ死にたくはなかったけれど、被験者であるアッシュに裁かれ、彼の為に消える。
(結果的にそれが世界の為になるとしても)
何の役にも立たない自分が、ようやく役に立てるのだと、償えるのだと。
(それに……、やっと返せると思ったのに……)
第七音素の光の洪水が収まり目を覚ますと、自分はアッシュの手をしっかりと握りしめていた。
ゆっくりと起き上がって上空を見ると、そこには眩いほどの、青。
障気を消すという大役は何とか果たせたものの、何故か自分は生きていた。
原因は定かではないが、恐らく途中で彼の力が添えられたせいだろう。
だが、助かったと思ったのもつかの間。
「念の為」と言うジェイドに促され、ベルケンドにある研究所で検査を受けた結果。
己の身体を構成する音素が不安定になり、音素乖離を引き起こしていることが分かった。
――このままいけば自分はいずれ、消える。
さらに今度は、今回のように消える日が決められているわけではない。
じわじわと、それこそ真綿で首を絞めるように、いつか消滅するその日に怯えながら過ごさなければならないのだ。
コートのポケットに入れていた手を上に上げる。
気を緩めるとじわりと手のひらの色が薄れ、その輪郭の中から、降り続く雪が見えた。
(これが、罰)
――周囲を騙し続けた、そして一万人のレプリカの命と、それ以上の命を奪ったことに対しての。
「……っ!」
ぎゅっと拳を握り締め、不安と恐怖を押し込めた。
薄れていた輪郭が元の色を取り戻す。
――この偽物の心臓は、後どれぐらいの時を刻むのだろう。
――この掌は、後どれぐらいのものを掴めるのだろう。
分かっていた、分かっていたことだろう?
いつか自分が罰を受けることは。
いつかこの命を持って贖う日が来るであろうことは。
なのに、どうしてこんなに怖いのか。
どうしてこんなに生きたいと思うのか。
――あの時、彼のことが好きだと気付きさえしなければ。
――彼と同じ時間を生きたいと、思わなければ。
(最低……だ……)
勝手に奪っておきながら、屋敷で過ごした時間は自分のものだと叫んでいた。
そのせいで何度も彼を傷つけた。
それだけでも最低だというのに、そんな彼を、自分の被験者であるアッシュを。
「――こんな所で何してやがる、屑」
――好きになるなんて。
「……お前こそ、こんな所で何やってんだよ」
彼の声が聞こえた途端、あっという間に鼓動が早まっていく。
顔を見るのが何となく気恥ずかしく、目を合わせないように顔を背けた。
「……情報収集中に立ち寄っただけだ。他の奴らは――ホテルか。呑気なもんだな」
「たまにはいいじゃんか。皆、疲れてるんだからさ」
――ちゃんと笑えているだろうか?
――気付かれないように、振舞えているだろうか?
「……お前も、だろうが。変な笑い方すんじゃねえよ、気持ち悪い」
「ひっでえ。同じ顔なのに」
『気持ち悪い』という言葉に少し胸が痛んだが、彼は「なおさらだ」と言いながら不機嫌そうに自分の隣に座った。
(あれ……? 普段ならそのままどっか行っちゃうのにな)
それか、舌打ちをした後にねちねちと小言を言って去っていくかのどちらかだ。
だからこの状態はとてつもなく珍しい。
彼が自分の傍にいるなどと、夢ではないだろうかと頬をつねりたくなるほどの奇跡に近いのだ。
再び落ち着かなくなる鼓動を必死で収めていると、ふいにアッシュの手が自分の顎を取った。
そしてそのまま強引に彼の方へと向けられる。
「な……何だよ?」
深緑の瞳が自分を射抜く。
見るというよりは、じっくりと観察されているようなそれ。
拒否しようにもがっちりと固定されていて動けない。
かといって彼の顔を直視するわけにもいかず、うろうろし始める視線を深く刻まれている彼の眉間の皺に置いた。
気のせいか、以前よりも皺が増えているような気がする。
「……隈」
「へ?」
そして何気なくその皺の本数を数え始めた時、唐突にアッシュが口を開く。
一瞬何を言われているのかが分からず、うっかり間抜けな声が出てしまった。
「〝また〟あの下らない夢でも見てんのか」
その言葉に、ぎくりと身体が強張り、慌ててそれを否定しようとする。
だが――
「夢なんて見てな……」
「明らかに『寝不足です』って面してるくせに、嘘をつくな」
その意見はばっさりと断ち切られ、顎を捉えていた彼の手が自分の頬をつねった。
「いふぇえ!(いてえ!)」
「他の奴らは気付いていないだろうが……いや、あのいけすかねぇ眼鏡は別か。
とにかく、こっちは回線が繋がってんだ。毎晩毎晩同じ夢を見てうなされてたら、嫌でもこっちに流れてくんだよ」
「え……?」
――まさか、あの、夢が?
「ったく……過ぎたことをいつまでも引き摺りやがって、うっとおしい」
「ふぉんな……(そんな言い方はないだろう!)」
「うるせえ! 口答えするな」
「いっっ――!?」
反論しようとするも、さらにつねる力の強度を上げられたせいで、それは敵わなかった。
一体何だと言うのだろう。
彼はこちらの悲鳴など聞きもせず、すぅ、と思いっきり息を吸った。
そして溜めた息と共に、口から一気に説教じみた言葉が物凄い速さで吐き出される。
「いいか? 確かにてめえは何千人、何万人もの命を奪ってきたが、何もそれを一身に受けることはない。
例を挙げればキリはないが、あの眼鏡やヴァンの妹だって、これまでに人を殺してきてるだろうが。
だけどあいつらは、てめえみたいに見苦しい隈作って、うだうだと考えてねえだろ。どうしてだか分かるか?
頭ってのは都合よく出来てるもんでな、自分にとって〝余計だ〟と思うものは忘れていくんだよ。
なのにてめえはそれが出来ない。何故か? それはてめえが〝弱い〟からだ。
てめえが奪った命を……、奪って〝自分が生き残った〟という事実を、受け入れずに乗り越えていないからだ!」
そうして一息ついた時、止めとも言える怒号が飛び出した。
「てめえはなぁ! 殺したとか、奪ったとか、人の命が云々とかそれ以前に、〝自分の命〟を大事にしてねえんだよ!!
そんな奴に死んでいった奴らの気持ちが背負える訳がねえだろうが!」
「……っ」
それを聞いた時、頬をつねっていた手がようやく解放されても、自分の口はしばらく開いたままだった。
呆然と、ただ彼の言葉を聞いていた。
そしてゆっくりと、言われた言葉を心の中で反芻する。
――『自分の命を大事にしていない』――
確かにそう言われるとそうかもしれない。
しかし誰も気付かなかったことを、自分ですら気付かなかった部分を、
よりによって自分のことを良く思っていないであろう彼に指摘されるとは思ってもみなかったのだ。
しかしこれは彼にも言えることだ。
その身を挺して障気を中和しようとしたアッシュにも。
(二人共生き残ったことで、何か感じることでもあったのだろうか?)
(ん? ってことは……)
これは励ましてくれているととっていいのだろうか。
ほんの少しの期待が浮上する。
「アッシュ……。ひょっとして、俺のこと心配してくれてる……?」
「――っ!!」
瞬間、ごん、という小気味良い音が辺りに響く。
何のことは無い、彼の拳が自分の頭上に降りかかっただけだ。
「ってえええ!! 何すんだ!」
「うるせえ! 余計なことを言う口を黙らせただけだ!」
ズキズキと襲い来る痛みに耐えながら隣を見ると、彼の頬が見事に赤くなっていた。
隣では再び怒号と愚痴が始まっている。
(やっぱり……、好きだなぁ……)
その不器用な優しさが嬉しい。
それ以前に、気に掛けてくれているというだけでも嬉しかった。
だけど、いくら彼のことを好きだと再認識しても、この想いは決して伝わることはない。
伝えることも、できない。
(でも、せめて)
せめて自分を、自分の存在だけは、認めて欲しい。
「なぁ、アッシュ」
「何だ!?」
アッシュの眉間にはさらに皺が増えていた。
それに気付いて少しだけ苦笑を零す。
「俺が、もし……――」
――もし、この世界から消えてしまったら。
「……いや、何でもない」
「……、言いかけてやめるぐらいなら最初から言うな」
「はは、ごめん」
――『たまにでいいから、俺のこと、俺がいたこと、思い出してくれる?』なんて。
(聞いた所で……)
言った所で。
いずれ消える自分には、関係のないことだ。
ならば彼の言うように、最初から言わなければいい。
余計なことは忘れていくと、そういう風に出来ているのだと彼は言った。
きっとこのまま何も知らせずに黙っていたら、誰も何も気にすることなく自分は忘れ去られていくのだろう。
――その方が、きっと、良い。
――良いこと、なんだ。
先から胸が痛むのは気のせいなんだと言い聞かせ、いつものように笑顔の仮面を貼り付けた。
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