追わないで、探さないで。
もういないんだ、あの朱い小さな自分は。
アッシュは会議室の外で僅かに揺らいだ気配を感じた。
誰かいるのだろうかと警戒して彼が腰を上げようとしたとき、どこか間の抜けた声が会議室の扉を叩く。
「アンバーぁ、いるんでしょーぉ?」
「レピドか?」
アンバーが声の主を呼びながら、扉へと近付いて行く。アッシュは先程の揺らいだ気配はアンバーの知人だったのかと、張り詰めていた気を抜いた。
レピドと呼ばれたその男は、アンバーが扉を開く前に堂々とそれを開いた。どうにも中々、図太い神経をしているらしい。
「ねェ、先ルキアちゃんらしき人がもの凄い勢いでェ――ってアラ」
そしてようやく会議室の状況に気付き、「来客中だったのねェ☆ ごめんなさぁい♪」と、その場にそぐわぬテンションで謝った。
場違いなその男――レピドが言った〝ルキア〟という言葉に、アッシュの何かが物凄い勢いで反応する。
(――あの気配は、こいつのもんじゃなかったのか!)
それに気付いた彼は音を立てて椅子から立ち上がり、扉の前に立つレピドの元まで駆け寄った。ナタリアが「アッシュ、何を!」と止めようとしたが、そんな声はもはやアッシュには届かない。
彼はあっという間にやたらと明るいその男の胸倉を掴み取ると、「その女、どっちへ逃げた!?」と噛み付くように叫んだ。
見ように寄れば脅しにも似た気迫。それに気圧されたのか、レピドが少し引き気味に答える。
「えェ? 出口の方へ走って行ったみたいだけどぉ……」
――出口。
アッシュはチッと舌打ちを一つつくと、その方向に向かって一目散に駆け出す。室内からの静止の声には聞こえない振りを決め込んだ。
一刻も早くあれを追わなければならないと、彼の表情がだんだんと険しいものになっていく。
――逃がさない。逃がすものか!
走り去った彼の後ろでは、「あれってもしかして青春ってやつーぅ?」と言いながらレピドがはしゃいでいた。
(……とりあえずあいつは、あとでぶっ飛ばす)
アッシュは固く心に誓った。
レムの塔から出て、アッシュはすぐに方向を定める。さっと視界を動かせば、マント姿で走っている新緑の髪をした人物が視界に映った。それに合わせてアッシュも走り出す。
男女の体格の差だろうか、徐々にその距離が詰まっていく。向こうも必死なようで、こちらを一度として振り向かない。
それがさらにアッシュの神経を逆撫でる。
すると彼の視界に信じられないものが映った。目の前を走る女の髪色がじわじわと変わっていくではないか。
――碧から、朱へ。
それは、その色は。アッシュが追い求めているモノだった。
(――見付けた、やはりあいつだ!)
彼の体中から歓喜が沸き起こる。急な全力疾走に息が切れて来るが、アッシュはそれでも無心で足を動かした。
もうすぐで手が届く――というところで、追いかけていた対象が急に茂みの中に身を隠した。それを逃すまいと、彼も急いで後を追う。
茂みに入ると、そこが簡易迷路になっていることにアッシュは驚いた。だが迷っている暇はないと続いて入る。
僅かに残された女の痕跡を辿り、アッシュは必死で追い掛ける。そうして少し経ったあと、迷路を抜けた先に階段があるのを彼は見付けた。
(成る程ここか。外部からここまでの交通手段は――!)
この先に何があるのかは分からないが、それに怯むことなくアッシュはその階段に足を踏み入れた。
――船着場まで一直線。
会議室の前で飛んだ邪魔が入ってしまったが、このまま行けば間に合うだろうと、ルークはぜえはあと息を切らして走りながら自分を叱咤する。
(駄目だろ、俺! 期待しちゃダメだ。あいつらが探してる〝ルーク〟はもういないんだから!)
しかし、彼らがここまで探しに来てくれたということは、ルークに会いたいということだ。そんなことは分かっているけれど、彼らに今のこんな姿を見られたくはないとルークは思う。
だが、自分を探してくれたという事実にルークはすでに泣きそうになっていた。会えないことは分かっているが、それでも嬉しいことに変わりはない。
思わず溢れ出しそうになるものを彼女が必死で抑えながら走り続けていると、そのすぐ後ろに追って来る気配を感じた。見えないけれど感じる、懐かしい気配。
――あぁ、〝彼〟にだけは追って来て欲しくないのに。
ルークは急いで茂みの中の迷路を抜けた先にある階段を下り、息を切らしながら洞窟に入った。全身が心臓かと思うぐらい動悸が激しく波打っている。後ろを追って来ていた彼はどうやらあの迷路に手間取っているらしい。
その間にと、彼女は少し息を整える。
リドは――と顔を上げると、ルークの目の前で今まさに船が着岸しようとしていた。それを運転していた黄緑色の少年が彼女に気付いて声を上げる。
「ルキア! こっちも今着いたとこだよ! ねね、アルビオールは!? どこにいんの!?」
「リ、ド……。ごめん……今、ちょっと、追われてて。悪いんだけど、すぐに船、出してもらえるか?」
ルークは呼吸を整えながら何とかそう伝える。その様子にただ事ではないことを察したリドは、「船を回すから少し待って」と言ってきた。
そしてようやく息が整うと、ルークは船着場へと続く残された階段を下りていく。しかしあと少しで船着場に着くというところで、彼――アッシュがついに追い付いて来た。
「〝ルーク〟!!」
――あぁ。
ああ、やめてくれ。お前が、その名を呼ぶのか。
(俺にはその名前で、お前に呼ばれる資格なんかないのに!!)
今も求めてやまないその声に、進めていたルークの足がびくりと止まる。ゆっくりと振り向けば、視線の先には紅い髪。ルークが何度もその手で触れたいと思った、今も憧れてやまない紅い色がそこにあった。
(本当に背、伸びたな。あのときは上から見てたから、よく分からなかったけど……。逆に俺は視線が低くなって、未だに違和感があるってのに……)
アッシュは何も言わずにルークを見詰めている。
その視線に耐えられず、彼女はそれを振り切ろうと視線を逸らした。しかしその刹那、ルークは逃がすまいとするアッシュにその右腕を掴まれてしまう。しかし以前とは違うその細さに驚いたのだろう、彼の目に驚愕の色が浮かんだ。
(やっぱり、気持ち悪いと思うよな……)
ルークはその僅かな隙を利用し、瞬時にそれを払う。そしてその場から飛び去りながら空いていた左手で腰の剣を抜き、着地すると同時に彼に突き付けた。
それはアッシュに対する牽制と、船の準備が整うまでの時間稼ぎだった。
――どうか、冷静になれ。
(――落ち着け! 俺!)
「それ以上近寄るな!……私は〝ルキア〟だ。〝ルーク〟などという名ではない」
口調を変えたルークの言葉にアッシュが立ち止まる。眉間に皺を寄せた状態で、〝ルキア〟と名乗るルークを睨んでいる。
「お前達の言う〝世界を救ったルーク〟は男だろう? 残念だが私は――女だ。他を当たるんだな」
(上手く、言えただろうか……)
――そして出来ることなら、これで納得してくれれば良い。
しかし、ここでもまたルークは忘れていた。――緑だったその髪が、再び朱くなっていたことを。
ルークではないと言い張る彼女に、押し黙っていたアッシュがついに口を開く。
「――ふざけるのも大概にしろ! そんなにも自分は〝ルーク〟だと言っておいて、今さらそうじゃねえだと? お前が〝ルーク〟じゃないというのなら、その髪と瞳の色が何故その色なのか説明しやがれ!」
――また、だ。
忌々しいことにこの髪と瞳は、いつも自分の意志に反して色が変わる。ルークは音譜帯に漂っているであろうローレライを恨めしく思った。
だがこれ以上の問答は無用だった。これ以上、彼に暴かれるわけにはいかなかった。
「……アッシュ……」
ふいに、ルークはアッシュの名を呼ぶ。そうすることで生じた彼の一瞬の隙をつき、タイミング良く回し終わったリドの船に飛び乗る。そうしてまんまとルークを乗せた船は、すぐさま岸から離れていった。
「――っ! 待ちやがれ!!」
離れていく船を追うように、アッシュが叫びながら追い掛ける。
ルークにはもう間に合わないことは分かっていた。もう手が届かないことも分かっていた。――だから。
「くそっ……!」
ルークの耳にアッシュの悔しそうな声が届く。
その声が本心から出たものであったことに彼女の心が痛んだ。
(……ごめんな)
充分に船と岸の距離がとれたことを確認し、ルークはアッシュに向かって叫ぶ。
「……俺には、〝世界を救った英雄〟だなんて言われる資格は無い」
「まだ、言うか……この……っ!」
「〝ルーク〟っていう名前だって、本当は俺の名前じゃない。レプリカである俺には、最初から名前なんかないんだ。だから、俺は〝ルーク〟じゃない!」
彼女はそこで言葉を一旦切る。
その後ろでは、二人の成り行きを心配そうにリドが見詰めていた。
「……それに、それにっ!」
――言わなければ、言わなければ。
「……〝ルーク〟は……、お前だろ!?」
〝皆が知っているレプリカルーク〟は、消えたんだ。〝本物のルーク〟に全部返して、溶けて、消えた。
――この身体には、もう〝ルーク〟はいない。
頼むから、追わないでくれ。これ以上、探さないでくれ。
――でないと、自分は。
そうしてついに、船はアッシュの声が届かないほどの距離になった。
岸の端で彼がさらに怒り、ルークに向かって何事かを叫んでいる様子が見える。その後ろを見ると、他の仲間達も追い付いて来たようだ。
(どうか、元気で……)
また怒らせちゃったなとルークは苦笑しながら、痛む胸と共に笑う。仲間の中には、ラズリとラピスの姿も見えた。
(ラズ、ラピスに会えて良かったな。これからは、二人で幸せに――)
つう、とルークの頬に涙が伝う。一度堰を切って溢れたそれは彼女の瞳からぼろぼろと溢れ出して来た。
「――っふ……ぅっ……!!」
声が漏れそうになるのを、ルークは両手で口を覆うことで回避する。そうしなければ泣き叫んでしまいそうだった。溢れ出す衝撃が足に伝わり、ついに彼女は立っていられなくなってその場に座り込んだ。
どうしようもないほど渦巻いた感情がルークの全てを支配する。
――駄目だ。思ってはいけない。〝帰りたい〟なんて。〝寂しい〟なんて。
嗚咽を殺して泣くその姿をリドが心配そうに見詰めている。それに気付いたルークは、零れ落ちていくそれらを抑えつつ、何とか言葉に出した。
「ごめっ……、リド……。ちょっとだけ向こう、向いててくれないか……」
――すぐに立ち直るから。
――すぐに、自分の中の〝ルーク〟を捨て去るから。
アッシュの視線の先でルークを乗せた船がどんどん離れていく。彼の後ろでは仲間達が追いついていたのか、何名かの苦しげな呼吸が聞こえていた。
そしてついにその船影が薄くなりかけたとき、アッシュはすぐさま後ろに振り返って走り出した。
(アルビオールで行けば、まだ間に合う距離――!)
しかしそれを、青い軍服から伸びた手が止めた。
アッシュは握られた腕を振り払おうとするが、強い力で抑えられてびくともしない。
「待ちなさいアッシュ。今のルークを追って行っても、また逃げられるだけでしょう」
〝逃げられる〟という言葉に彼の身体が軋む。止められたことをアッシュは歯がゆく思うが、ジェイドの言うことは正しかった。
――例えこのまま追いかけたとしても、ルークを追い詰めてしまうだけかもしれない。
突如沸いて出た悔しさに、アッシュは耐えるように歯を食いしばる。
「あなたにも、私達にも、まだここでやることがあります。恐らくそれを成し遂げることを、あの子は望んでいる。あなたはそれでも、それを踏みにじって行けますか?」
ジェイドの言うことはもっともだった。
先程かいつまんで聞いたアンバーの説明では、ここに街を作るためには各国の同意が必要不可欠であることは安易に予想できる。――となれば、ダアト・ユリアシティ・キムラスカ・マルクト各国の長へ取り次げるのは、ここにいる者達しかいない。
アッシュは再び大きく舌打ちをすると、ようやく勇む足を止めた。
本当は彼だけでなく、ここにいる者達もルークを追いたいと思っていることは彼自身分かっていた。しかしジェイドの言うように、今の状態で追って行ってもルークはまた逃げようとするだろう。
ならば、自分達にできる精一杯をここでするしかないと、それがルークの願いだと。逃げられた今では、アッシュはそう思うしかなかった。
――こんなにも、自分は弱かっただろうか。
以前はいつもうざったいぐらい追いかけて来たのに、今じゃまったく逆の立場だ。あのとき、ルークもこんな思いを抱えていたのだろうか。
悶々と考え込み始めたアッシュの前に、ジェイドとのやり取りを傍観していたラズリが静かに立つ。
「私が知っている、あなた達が知らない彼女のこともあとで話すわ。ただ今は、レプリカの街が出来るように協力してもらえないかしら……。ルキア……、〝ルーク〟もそれを望んでいたから」
仲間達はラズリが言った言葉に静かに頷き、それぞれが一様に元居た会議室へと戻り始める。それらの背を追うように一番最後に動き始めたアッシュは、ふと、握りこんでいた右手を見詰めた。
――掴んだ腕は、折れるかと思うほどに細かった。
だがそれよりも、前とは違う感触に驚いた己の顔を泣きそうな顔で見たルークの表情が、いつまでも目に焼き付いて離れなかった。
周りに気付かれないように彼は小さく溜息をつくと、ルークを掴んだ手をそっと撫でた。
―第二章 Chase 完―
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