それから彼女と過ごした二年間はとても楽しい日々だった。
彼女は毎日のように言葉と知識を与えてくれた。自分は一生懸命それを覚え、ある程度上達して彼女のように動けるようになると、店でも雑務をこなすようになっていた。
ある日、掃除をしようと入ったマイカの部屋の中に綺麗な色のチューブや筆があるのを見つけて、これは何だと聞くと、絵を描くための道具だと言われた。
彼女は以前絵を描いていたことがあったようだが、「今じゃすっかり描く暇がなくなってねェ」と話していた。どういう風に描くのだと聞いたら、自分の手をとり筆を握らせて、絵の描き方を教えてくれた。
真っ白いキャンバスから色とりどりの世界が広がるその技術に酷く魅せられた。自分が一番初めに手がけた作品を見せたとき、彼女はとても喜んで鼻歌まじりで店に飾っていたのを今でも思い出す。
その喜んだ顔が嬉しくて、またその顔が見たいと思って、何枚も何枚も絵を描いていった。
日に日に店に飾られていく絵は客の目にも留まり始め、ついには貴族の間で評判を呼ぶまでになった。
しかし、どんなにせがまれても、どんなに高額な値を付けられても、彼女にはたった一つの作品だけは売ろうとしない。
どうして売らないのかと聞けば、「レピドが初めて描いた絵よぉ? そんな大切なもの、売れるものですかぁ」と答えられて赤面したことを覚えている。
彼女はいつも話していたことがあった。
――例え、被験者とレプリカが相容れない存在だとしても、綺麗なものを綺麗だと思う気持ちは同じだと。
「そしていつかお互いが手を取り合って、一緒に〝綺麗だ〟と言えるようになったら、どんなに素敵なことかしらねェ」
そうなると良いと心から思った。あれほど被験者を、世界を憎んでいたはずなのに不思議なものだ。こう思えるようになったのも、彼女のお陰なのだろう。
己の過去を一通り話し終えると、虚ろだった彼女の焔色の瞳が光を灯し始めたのが見える。
「……その人は今、どうしてるんだ?」
「被験者同士の喧嘩に巻き込まれてねェ、……亡くなったわぁ――」
――あの夜は雪が降っていた。
買出しから帰って来ると店の方から叫び声が聞こえ、それと同時に駆け出して来る男達。胸騒ぎがして急いで中に入るとそこには、短剣で胸を刺されて血を流している彼女がいた。
一体何があったのだと聞くと、客の喧嘩を止めようとして巻き込まれたのだという。急いで医者を、と駆け出そうとしたが、それを彼女が止めた。その出血の量から、無意識の内にもう間に合わないことを悟った。
「私の、可愛い、レピド。まだ……この、世界を……恨んでる……?」
「マイカ! 喋らないで! 血が――!」
「私は、恨んでた……わ。……あなたと会うまで……は」
「――っ!!」
どうして、彼女がこんなに幸せそうに笑っているのかが分からない。
「こんな……ちっぽけ、な世界だけど……恨まないで、やって……ねェ?」
「恨んでなんかないよ! だって――!!」
「この、世界が……あった、から、あなたが……生まれたん、だもの……」
はぁ、と息苦しそうに、それでも嬉しそうに彼女は笑って、抱きかかえる自分に手を伸ばす。
「あなたの、描く、絵は、とても、綺麗……」
「マイ……カぁ……!」
涙が溢れる。その間にも彼女の胸から血は流れていく。
「……例え、光に、なって何も、残らなく、ても。絵は……残る、わ、ずっと、ねェ」
「……う……ぅ……っ」
「ねェ、レピド……。私が、見られなかった、もの。ちゃんと、見届け、るのよ……?」
――ぐっ、ごぼっ
彼女の口から真新しい血が流れていく。
――あぁやめてくれ、こんなに綺麗な彼女から命を削り取っていかないでくれ。
「ここから、遥か南……レム、の塔……。そこ、に……あな……と……同じ……」
「もう、喋らないで――!!」
抱きかかえる手が血に濡れていく。彼女が生きている証が。
――流れるな、止まれ! 止まれ!! 止まって……っ!!
「レピ……ド、どう……か、幸……」
「――っ、分かったから! 分かったからぁ!!」
そんなこと、言わないで欲しい。まだ助けてくれた恩返しが出来ていない。
彼女は、自分がこれから幸せにするんだと決めていたのに。自分の幸せより、彼女の幸せを願って欲しかったのに!
そんなに、そんなに幸せそうに、微笑まないで。
「美、人に、看取……ら……る、なんて……悪く、ない……終わり……だわ、ねェ……」
そして、彼女の血に濡れた手が自分の頬を一撫でして、ゆっくりと滑り落ちた。
「マイッ――! マイカぁぁぁぁあああああ!!」
どうして自分が生き残るのだ。どうして人である彼女が死ななければならないのだ。
――どうして、どうして、どうして!
あぁどうか、置いていかないで。自分一人をここへ残して逝かないで。
自分が描いた絵を、あんなに綺麗な笑みで褒めてくれる人など、あなた以外に知らない。貴族や王族からの賞賛などいらない。
――あなたが、あなただけが喜んでくれればそれで良かったのに!
「――っ、……うっ……うぅ……」
その晩は夜が明けるまで、ひたすら泣き尽くした。
そうしてようやく涙が枯れ果てた頃、湿らせた布で彼女の顔を拭く。口元は僅かに上がり、微笑んでいるように見えて。今にも起き上がってきそうだったが、その頬の冷たさに失った現実を知る。
墓標は、彼女が好きだった空がよく見える丘の上に作った。ちっぽけなものだったけれど、大げさなものをあまり好まなかった彼女にはぴったりだと思っている。
花を飾ってくれる人がいないことを寂しく思い、彼女の墓標に絵筆で花を描いた。
一つ一つ花が増えていく度に、また涙が零れていく。
――ありがとう。
――ありがとう。
――あなたの笑顔が、好きでした。
ここまで育ててくれて、ありがとう。優しさを、温もりを、嬉しさを、楽しさを、喜びを、――悲しみを。全ての感情を、教えてくれてありがとう。
最後の花を描き終わって墓標を見る。
『どういたしましてェ』と言いながら、彼女が微笑んだような気がした……――
全ての過去を話し終わると、すぐさま「悪いことを聞いた」と焔色の瞳をした彼女が謝って来る。自分のことは良い。それよりも彼女にはやるべきことがあるはずだ。
マイカが口癖のように言っていたことを彼女に伝えると、彼女の視線が定まり顎が上がった。どうやらやらなければならないことを再確認したらしい。
気分転換の方法を教えてやると「ありがとう」と礼を言われ、そのまま彼女は去って行った。これで良い。あとは周りが何とかするだろう。
見上げれば、青く広がる空――あぁ、今日も綺麗だ――。
彼女はもっと高いところで、この空を見ているのだろうか?――だとしたらきっと喜んでいるだろう。
ここに描いた花の墓標に最後の仕上げをするために一本の絵筆を握る。細心の注意を払い、花の中心にそれを小さく描き込んだ。
窓の外に向けていた視線を手元へと戻す。
過去を振り返っている内に、気付けばカップに淹れてあった紅茶はすっかり冷めてしまっていた。それを一息に飲み干すと、描きかけだった絵を仕上げにかかる。
絵が仕上がったときには、いつも仮名を入れていた。自分の名前の別名だと彼女から聞いたそれに、今はもう一つ書き加えて。
それはアトリエに飾ってある、彼女が決して売ろうとしなかった絵にも加えてあった。
――Well-Wishing.(全ての幸せを、願う)――
――Lithia・Mica(リチア・マイカ)――