例えこの手の中に、
何も残らないとしても。
――鼻歌が聞こえる、とアッシュは思った。
その旋律が聞き慣れないものだったので、彼は思わず足を止めた。音を辿ると近くに扉が僅かに開いた部屋が見える。
アッシュは気配を消して部屋を覗き込むと、そこでは群青色の女性が機嫌良さそうに石を並べていた。先程の鼻歌はこの女性のものだったようだ。彼女の細い指先が次々と石を並べていく。
――名前石。
このレムの塔にいるレプリカ達全員の名前が彫られた石。ラズリと、現在その石を並べている女性――ラピスが揃いで持っている石をヒントに作ったという石だ。
その石についてほんの少しの興味が沸き、アッシュは衝動のままに開きかけていた扉をノックした。
「はーい――って、アッシュ? どうかした?」
「いや、大したことじゃないんだが……」
アッシュに気付いたラピスは満面の笑みだ。その笑顔に彼は一瞬怯み、やはりやめておこうかという迷いが見える。
「折角だから中に入って? ちょうど休憩しようと思ってたところなの」
しかしラピスから「どうぞ」と促されると、部屋の中へと案内される。聞きたいことだけ聞いて退散するつもりだったアッシュであったが、無下に断るわけにもいかないと少々戸惑いながら足を進めた。
そうしている間にも、彼女はすでに簡易キッチンへと向かって紅茶を淹れている。その香りがゆっくりと部屋内に漂い、どこか心地良い空間を作った。
紅茶が入るまでの間、少し気まずい空気が流れる。何となく手持ち無沙汰となったアッシュは、何気なく彼女が作業していた机の上に目を落とした。
そこには様々な種類の石が並べられている。並び方から察するに、レプリカ達の名前順に整理をしているのだろうか?
「並べると綺麗でしょ♪」
後ろから紅茶を淹れ終わったラピスから「空いてる椅子に座って?」と声を掛けられ、アッシュは大人しくそれに従う。石を置いていないスペースに二人分のティーカップが置かれ、中央には焼き菓子が置かれた。
「レプリカの子がね――あ、その子は〝プレナ〟って言うんだけど。作って持って来てくれたの」
「形がちょっといびつだけど、上手に焼けてるでしょ」と微笑むその顔は、まるで母親そのもの。それを見た彼は、屋敷にいる自身の母親のことを少しだけ思い出した。
彼女は淹れ立ての紅茶を美味しそうに一口飲んだあと、複雑な表情をしているアッシュを見た。
「それで、聞きたいことって何かしら?」
笑顔でそう言われ、さてどうやって切り出したものかとアッシュが思案していると、その考えを読んでいるかのようにラピスが答える。
「ひょっとして、この石のこと?」
そう言って彼女は首元にある石に触れた。相手の考えていることを読むことに長けている辺りは、さすがラズリの被験者――といったところか。彼は頷きながら「聞いても良いか」と一言添えた。
「えぇ、もちろん。この石はね――」
そしてラピスの昔話が始まった。
ラピスが生まれたのは、ここから大分離れた場所にある山の奥の、さらに奥。
世界に知られていないのではないかと思われるほどの辺境の街で、人口も少なく、皆がそれぞれに穏やかに暮らしていたという。
ラピスの両親は、そこで薬剤治療を施す唯一の医療院を営んでおり、その両親の献身さと治療の腕の良さに、毎日患者が通って来るという繁盛振りだったらしい。
しかし、そんな幸せな家庭の元で育ったラピスは、ある日誰かに攫われてしまう。
このとき、彼女は小さかったので誰だったかは思い出せないらしいが、誘拐の目的は恐らく、レプリカ情報を抜くためだったのだろうと言った。
攫われたあとはどこかの研究施設に運ばれてレプリカ情報を抜かれ、家に戻ったあとはしばらく高熱が続いたと、薄れた記憶でも覚えていたようだ。
「ようやく熱が引いて、意識が戻ったとき……――」
◆ ◆ ◆
目を覚ましたとき、そこはラピスの部屋だった。
彼女は身体に上手く力が入らないことを不思議に思ったが、何とか視線だけを動かして周りを見る。すると、そのすぐ傍で両親が仕事で忙しい間、親身になって世話をしてくれていた家政婦が泣き暮れていた。
「どうしたの?」とラピスが聞くと、目を覚ました少女に「無事で良かった」と家政婦は安堵の息をつきながらそう声を掛けた。しかし、続けて少女にとって耳を疑うような事実を告げられる。
「旦那様と、奥様が、お亡くなりに――!!」
幼かったラピスは、一瞬何を言われているのか分からなかった。あの優しい両親が死んだなんて、にわかには信じられない。
彼女はすぐさまベッドから飛び出し、家政婦が止めるのも構わず両親を探して家中を走り回った。
「お父様! お母様!!」
――何度叫んでも、あの優しい両親は自分の元へ出て来てはくれない。
彼女は嘘だと心で叫びながら、ある部屋へと入り込む。そこには、安らかな顔で眠るように横たわる彼女の両親の姿があった。ラピスに対していつも優しく微笑んでくれたその顔は、今はどこか冷たい。
ラピスは泣きながら二人を起こそうと、何度も身体を強く揺する。
「どうして……っ、どうして起きないの? 何でこんなに冷たいの!? 何で動かないの! 何でっ……、何でお花で飾られてるの……!!」
眠るように横たわる両親の元で、ラピスはひたすら泣き叫んだ。
その声を聞き付けたのか、彼女を探していた家政婦が走り込んで来た。「お嬢様、お嬢様!」と少女の身体をしっかりと抱きしめながら、家政婦も泣いている。
そうして二人が泣くことに疲れた頃、抱き締めた力を緩めたあとで家政婦がぽつぽつと話し始めた。
「旦那様と奥様は、攫われたお嬢様をたった二人で助けに向かわれたのです。私共がいくらお供しますと言っても、迷惑をかけたくないからと。ここへお嬢様を連れて戻られたとき、旦那様と奥様は何があったのか、瀕死の状態でございました。助けを呼ぼうにも、この街に医者はここだけでどうしようも……っ……」
家政婦はそこで言葉を詰まらせた。どうにか気を取り直した家政婦から、「お二方からお嬢様へ言伝を預かっております」と言われ、彼女は黙ってそれを聞くしかなかった。
「『ラピス、どうか私達が死んでも悲しまないで。あなたは私達の宝。この世界に生まれたことを恨むことなく、誇らしく生きて頂戴』と」
それを聞いて、ラピスの瞳から再び涙がこぼれていく。
さらに家政婦は続けて言った。
「あとはもう一つ。私めには何のことだか分からないのですが……。『あそこで作られていたのは、可哀想な子供達。もし、あなたがあの子達と出会うことがあったなら、力になって助けてあげて』と仰られていました」
その意味はラピスにも分からなかったが、両親が最後に残した言葉は彼女の心に深く刻まれた。
その後、天涯孤独の身となったラピスは、家政婦や以前から家の管理を手伝ってくれた人達に助けられ、両親が残した遺産と薬草や治療法についての知識でほそぼそと医療院を続けていた。
幸い、両親には劣るものの献身的な彼女を気に入ってくれた患者達が好んでそこを訪れていたので、彼女自身寂しいとは思っていなかった。
レプリカという存在が世界に知られるようになったのは、ようやく治療院として成り立っていける――というときだった。
その頃になるとラピスにも自立心が芽生え、このままではいけないと、ある日世話になっていた家政婦達に暇を出したのだ。
案の定、「お嬢様お一人をここに置いていくわけには」と渋る家政婦達に、「自分のことは自分で出来るようになったし、貴方達もそろそろ自分の幸せを見付けるべきよ。何もこの屋敷に近寄るな、というんじゃないのよ? たまに様子を見に来てくれるだけで良いの」と説き伏せて、一人暮らしを始めた。
実は彼女が一人で暮らそうと思ったのにはもう一つ理由があった。
それは、何故かは分からないがここ最近、灰色の服を着た人達が道端で傷だらけになって倒れているのを見掛けるのだ。しかもその倒れている人達を、不思議なことに誰も助けようとしない。
それをおかしく思ったラピスは、周辺に居た男に話を聞いてみることにした。
その人が言うには、『灰色の人達は〝レプリカ〟という存在で、人間の複製品――いわば作られた存在で〝いらないモノ〟 だから助けない』ということだった。それに、『放っておけば勝手に〝消えていく〟』とも。
それを聞いたとき、ラピスの脳裏に自然と両親が言い残したという家政婦の言葉が浮かんでいた。
――『あそこで作られているのは、可哀想な子供達』――
――『もしあなたがあの子達と出会うことがあったなら、力になって助けてあげて』 ――
その言葉通り、理由を説明してくれた男が止めるのも聞かず、彼女は倒れていたレプリカを助ける。「何故助けるのだ」としつこく言って来る男に対して、ラピスは叫び返した。
「レプリカだとか人間だとか、私には関係ない。私の目の前にいるのは、傷付いた人よ。その人が傷付いている限り、〝私の患者〟だわ! そうでしょう?」
普段からは想像もつかないような声で言ったせいか、周囲は驚きの視線を彼女に送る。
それには構わず、ラピスは何とかその傷付いたレプリカを自力で家に連れ込んで治療した。
助けたレプリカは、初めはまったく感情がなかったが、彼女の献身的な介護によって段々と表情が表に出るようになった。それを間近で見ていたラピスは、彼女の両親が死ぬ間際に言い残した〝可哀想な子供達〟という意味をようやく理解する。
(きっと、レプリカ達は生まれたての赤ん坊のような状態なんだわ)
例えそれが人間の複製品だったとしても、この目の前にいる存在は懸命に生きようと必死だ。こんなにも生にしがみついている儚い存在を自分は知らない、とラピスは思う。
しかし、そのレプリカは回復すると同時に彼女の家から忽然と姿を消した。ラピスは必死になってあちこちを探したが、見付からない日々が続く。
そうしてしばらくが経ち、きっとどこかで幸せになっているのだろうと諦めかけた頃。
ふいに玄関先で倒れ込むような音がした。急いで扉を開けると、そこには姿を消したはずのレプリカが瀕死の状態で倒れていた。
「酷い! 一体誰がこんなことを……!!」
ラピスはレプリカの具合を見るために駆け寄る。しかし、その傷の深さからもう間に合わないことを悟った。
レプリカは微笑んだままゆっくりとラピスの手をとり、握っていたそれを渡す。
「あなたに……お礼、を……。……この石、あなたに、似て……綺麗……ったから」
「――っ、これを、渡すために、わざわざ……?」
こくり、とレプリカは小さく頷いた。
(あぁ神様――!!)
彼らはこんなにも感情があるではないか。生きたいと、生きていきたいと願っているではないか。どうしてこの儚い存在が認められないのだろう。
どうしようもない感情が彼女の中を巡る。ぽたぽたと頬を伝う涙が、レプリカの上に落ちていった。
「あり……が、……とう……」
レプリカは嬉しそうにそう呟き、涙を流す彼女の目の前で光となって――消えた。あとに残ったのは、手に乗せられた青と金が混ざった色を放つ、二つの石だけだった。
ラピスはそれから、前よりも一層レプリカを助けることに精を出す。例え周りから〝変人〟呼ばわりされても、決してやめようとはしなかった。
ある日、彼女が買い物を済ませて家路についていると、路地裏で蹲《うずくま》っているラピスよりも明るい髪色をした少女を発見した。身に付けていた服装と傷付いたその身体から、少女がレプリカであることは一目瞭然だった。
こちらの気配に気付いたのか、蹲っていた少女が顔を上げる。
そうして目と目が合った瞬間、互いに時間が止まったかのように動けなくなった。
――何故ならばその少女は、ラピスとそっくり同じ顔をしていたのだ。
しかしラピスは最初こそ驚いたものの、少女の傷付いたような表情と傷の具合から「まず治療をしなければ」と思った。
近付こうとすると、少女はこちらを見たまま怯えるような素振りを見せる。今までに出会った大抵のレプリカ達がこういった態度だったのを思い出して、ラピスは悲哀を浮べる。
「その傷、治療しなきゃ。私、薬剤治療師なの。家、近くだから。いこ?」
「ここにいたら危ないから、ね?」と優しく微笑みながら、ラピスは返事も聞かずにその少女の手を取って歩き出した。
――一刻も早くここから連れ出さなければ、また、あのレプリカのようになってしまう。
それだけは避けたかったのだ。
半ば強引に少女を家に連れ込んだあと、ラピスは手際良く彼女に治療を施した。
(思ったより傷は深くない。良かった……)
身体が冷えていたので、ラピスは温かい飲み物を用意して少女に手渡す。
少女は訝しんでいたようだが、敵意はないことを悟ったのか恐る恐るそれに口をつける。ほわりと身体に染み込むのを感じたのだろう、思わず吐息をついたのが見えた。
(それにしても……自分のレプリカに会うなんて。これって実は凄いことなんじゃないかしら)
ラピスはじっくりとその少女の顔を見詰める。――確かに似ている。似ているのだが、何故かまったく似ていないと彼女は思った。
物珍しそうに見ているラピスの視線に耐え切れなくなったのか、その少女が口を開く。
「……レプリカがそんなに珍しいか、被験者よ」
それを聞いたラピスはついに噴出す。いきなり笑い始めた彼女に、その少女は目を見開いた。
「っごめんなさい、笑っちゃって。……はぁ、おかしかったぁ。だってね、こんなに〝違う〟のに、どうして皆〝複製品〟って言うのかしらと思って」
まだ笑い足りないとばかりに、彼女の口から笑いが零れる。
そうしてようやく笑いが収まったあと、ラピスは視線を上げて少女と目を合わせた。
(……この子は言葉が理解出来るのね。ある程度の知識――いえ、自我が芽生えているのかもしれない)
少女は、急に黙ったのをおかしくおもったのか、訝しげに様子を窺っていた。
――出来ることなら、怯えさせたくはない。
「ほら、〝私〟はそんな表情をしないもの。あなた、名前はあるのかしら? あれば教えてくれない? 友達になりたいわ」
〝友達〟という言葉に少女は驚いたようだった。もし自分がレプリカだったとしたら、きっとそう考えるだろうとラピスは思う。こんなことを言い出す人間に出会ったことはないだろうから。
「……名前は、ない。そんなもの、ありはしない」
「じゃあ、私が付けても良い?」
少女が返事をする前に、すでに考えていた名前を伝えた。
「あなたは今日から〝ラズリ〟よ」
――それは、自分の名前の由来となっている石の名前の一部。
――そして、あの心優しいレプリカが、お礼にとくれた石の名前の一部。
にこにこと笑いながら視線を合わせたまま動かない彼女の根気に負けたのか、少女は――ラズリはゆっくりと頷いた。
◆ ◆ ◆
「――あとは知っての通りよ。このネックレスはそのときに作ったの」
ラピスの過去を語られていくにつれ、彼女の目の前で黙々と話を聞いていたアッシュの顔が複雑な表情になった。
話しが終わったあとで少し考え込んだ彼は、「何故、レプリカを憎まなかったのか」と小さくラピスに聞いた。
「どうして?……それはアッシュもよく知っているんじゃない?」
彼女はとても簡単なことだと笑って言う。
それだけで言いたいことが分かったのだろう。アッシュの視線が泳ぎ、それを誤魔化すように冷め掛けた紅茶を飲み始めた。
「ルークさんが帰って来たら、名前石をプレゼントしてあげたらどう?」
「もちろん名前は、アッシュの手彫りでね♪」とラピスが付け足してやれば、アッシュは盛大に咽《むせ》た。これほど分かりやすい人物もそう居まい。ラピスはくすくすと笑っている。
周りはとっくに気付いているというのに。分かっていないのは、本人だけじゃないだろうか?お互いが、お互いを求めていることに。
――早く気付けば良い、と思う。自分達のように、幸せになれば良いと思う。
紅茶を急いで飲み干して「邪魔をしたな」と足早に去って行くアッシュを見送ったあと、ラピスは愛しそうに首元で揺れる石を撫でた。
(でもね、アッシュ。私達のこれには名前は彫られていないの)
――何故ならこの石こそが。
(〝私達の名前〟そのものなんだもの)
――青く、金色に輝くその石の名は……
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