絵を描くことが好きだった。
綺麗な絵を描くと、あの人はいつも喜んでくれたから。
上手く出来た作品は、鼻歌まじりで店に飾っていた。あの人はその中でも、店を訪ねて来るお客からいくら「譲って欲しい」と言われて高額な金額を提示されても、絶対に譲らない作品があった。
――レムの塔。
自我の目覚めた者達や、呼ばれるようにしてここを目指して来たレプリカ達が集まる場所。自分は今、ここで絵を描き続けている。
白いキャンバスに無心で筆を走らせる時間がとても好きだ。その間だけは余計なことを考えなくてすむ。筆と紙面がこすれる音だけが空間を支配する。
ちらりと横目で窓の外を見ると、青く澄み渡った空が見えた。頬が緩むのが分かる。今日も彼女が好きな空の色だ。
それを見ながら身体の中に溜まっていた空気を吐き出した。一息で描きすぎたせいか、身体が重い。
首を横に倒し、あちこちを鳴らす。そこから思ったよりも大きい音が出てしまい、苦笑した。
それほど長く描き続けていたのだろうかと、傍らに置いてあった時計を見ると、描き始めたときからかなりの時間が経過しており、絵を描く作業に没頭しすぎたことを物語っている。頭だけが先走り、身体が疲労で悲鳴をあげ始めていた。
――少し、休憩しよう。
立ち上がって背伸びをする。
アトリエに構えてくれた簡易キッチン――黄緑色の髪をした少年に感謝だ――で紅茶を淹れる。息を吹きかけて少し冷まし、湯気がたつそれを一口すする。
カップを持ったまま、窓辺へと移動してまた空を見上げた。
(レムの塔へ来て大分経つな……)
空を見上げながら過去を思う。
ここへ来た当初は、何となくその場に混ざっているだけだったが、自我が目覚めた者達の中で『街を作ろう』と言い出す者がいた。そのレプリカは、〝アンバー〟と名乗った。
レプリカに名前が付いているということは、それだけで特殊な証拠だ。しかも彼の表情があまりに豊かだったことが気になったので、何気なく話し掛けてみることにした。
やはりというか、予想通りというか、彼は自分の言葉遣いに引きつった顔――失礼な――を見せた。
アンバーの名前の生い立ちを聞いてみると、ケセドニアで被験者からの暴行から助けてくれた恩人達から名付けられたと言う。奇特な被験者もいたものだと言うと、彼は『その恩人達も同胞だ』と答えた。その言葉にさらに興味を持つ。
被験者に助けられる例は――極僅かだが――ある。何故なら自分もその一人だから。しかしレプリカが、レプリカに助けられるというのは聞いたことがない。
レプリカは大抵、どの街でも蔑まれる存在だ。
そんな状態の中では例えレプリカを助けようと思ったとしても、それを実行出来る者はいないに等しい。レプリカは生きていくことがやっとで、武器を扱う術を身に付けていないからだ。
唯一、それが実行出来る人物といえば、世界を救ったという〝レプリカルーク〟ぐらいだろう。彼は周囲に恵まれていた。彼を助ける仲間達や色々な後ろ盾があっただろうから。
しかし朱い髪に碧の瞳をしていたという彼は、ここ最近消息を絶っていると聞く。
アンバーはその彼に今も尊敬を抱き、憧れているらしい。アンバーを助けてくれた恩人は、まるでその英雄のように強かったと彼は語っている。
恩人は二人いて、しかも二人共が女性だったらしい。それを聞いてさらに驚く。女性が武器を扱うのは意外だ。
青い髪と焔のような瞳が印象的だったという。意識を失う寸前でよくは見えなかったが、恩人達はアンバーを囲んでいた男達をあっという間になぎ倒し、さらには恩人の片割れが傷付いた彼を癒しの力――譜術も扱うのだろうか?――で癒してくれたらしい。
彼はその二人との別れ際に約束をしたのだという。感情を表に出す練習をして、次に会うときには笑顔で会おうと。
(成る程、だから彼はこんなにも表情豊かなのか)
恩人は今も世界各地でレプリカ達を保護して回っているらしい。しかもレプリカ達の間で、〝蒼焔の守り神〟と呼ばれるほど有名になっているとか。
アンバーはそれを聞いて、ここで自分も出来る限りのことをしたいと話す。それがレプリカの街を作るということだった。
話を聞いていく内に、アンバーの恩人達に会ってみたいと思った。同時に、そこまでの人物ならばいずれこの地を訪れることになるだろうとも思った。
自分も街を作ることを協力する旨を彼に伝えると、途端にアンバーが笑顔になる。その笑顔につられて自分も笑った。
その後、街を作るメンバーに黄緑色の髪を持つ少年――リドも加わり、彼は真っ先にレプリカ達の拠点であるレムの塔内を過ごしやすいように改造――デザインを手がけたのは自分だ――した。
一室にアトリエを構えて毎日のように絵を描き、それをリドに渡して市場で捌いてもらう。以前から自分が描く絵は上流階級の者達の間で人気であったから、いつも飛ぶように売れていた。それを資金として、少しずつ少しずつ成長させていったのだ。
そして合間を見付けては、レムの塔の最上階へ入り浸っていた。ここで昔、一万人のレプリカの命と引き換えに障気が消されたという話を聞いたからだ。
障気を消したのは、世界を救った〝レプリカルーク〟と〝その被験者〟らしい。彼らに感謝をする者はいたが、消えたレプリカに対して賛辞を述べる者はいなかった。
――それは余りにも寂しく、辛いこと。
だからここに花を描くことにした。一万個の花を。
雨や風に晒されても消えないように改良されている特殊な絵の具を使い、色とりどりな色で描いていった。一つ一つに感謝を込め、丁寧に塗りこんでいく。
中心から外側へと広がるように描く。描いている間は無心だ。
幾日もかけて作業を続けて大きな花束の墓標が出来上がったとき、アンバーの恩人達が来訪したことを知る。
それを聞くなり、すぐさま会いに行った。
扉を開けると、彼から聞いていた通りの青い髪と焔のような瞳をした女性二人。こんなに綺麗なのに武器を扱うのかと疑いたいぐらいだった。それは見事に腰に差している剣で否定されたが。
二人の内、何気なくいじった焔色の瞳をした女性の髪が元は碧だったことに気付く。
折角綺麗な色なのだから、ここにいる間は染料を落とした方が良いと勧めた。二人が部屋を出たあとに、少しは自重しろとアンバーから説教を喰らう。どうにも己の対応が気に入らなかったらしい――丁重に扱ったつもりなのに――。
耳にタコが出来るほどの説教がようやく終わってアトリエに戻ろうとしていると、沈んだ表情をしてとぼとぼと歩いている先程の女性――ルキアと会う。どこか追い詰められた表情が気になり、強引に彼女を最上階へと連れて行くことにした。
完成したばかりのそれを誰かに見せたかったのは事実だった。そこへ来訪したばかりの彼女を連れて行くということに一瞬違和感を覚えたが、特に気にすることでもないだろうと思い直す。
昇降機に乗っている間、彼女の身体は僅かに震えていた。
高いところが嫌いなのだろうかと思ったが、それとは反応が違うようなので気にしないことにする。最上階で昔、何かあったのかもしれない。
最上階へと着くと彼女は俯いて一つ溜息をつき、恐る恐る目を開けて前を見た。
その一連の行動に、やはりここで何かあったのだということを察する。――と同時に、自分の中でありえない理論が頭を巡った。
ひょっとして、いやまさか、と思いつつ彼女にカマをかけてみる。
「以前ここで、一万人のレプリカの命と引き換えに、障気が消されたって話」
ぎくりと傷付いた表情をした彼女を見て、全てを悟った。
――あぁ、彼女は……――いや、〝彼〟は。
その確信は己の中だけに押し留めておく。今明かすのは時期ではない。それに彼女自身がをそれを許していないだろう。
しかしその悩んだ顔を何とかしてあげたくて、ここに花を描いた理由を話す。己の悲しい過去も含めて。
あの人と出会ったのは、自我が目覚めて間もない頃。雪深い街の路地裏、ちょうどあの人が営むバーの店の裏だったのを覚えている。
寒さで凍えて動けなくなっていたところをあの人に助けられた。
「あらぁ? こんなとこにぃ少年? ひょっとしてあんた、巷で噂の〝レプリカ〟ってやつぅ……?」
――被験者、だ。
早く逃げなければ――と思うが、身体は思うように動かない。また殴られると思い目を瞑ったが、いつまで経ってもそんな様子はなかった。
それどころかその被験者は横たわった身体の前に座り、あろうことかレプリカの自分に話しかけて来たのだ。
「凍えてるじゃなぁい? そんなところにいないで、こっちへいらっしゃい? 何もしないからぁ」
ほら、と言われながら手招きされるが、その意図が分らずに身体を震わせるしかなかった。その怯えきった様子に、「一時期の私みたいねェ」と被験者は笑う。
一向に殴る様子を見せないその被験者に、逆に興味を持った。
(少し様子を見てみるか。危なくなったら逃げよう)
「坊や、私はねェ。小さい頃、実の両親に虐待された挙句に捨てられたのよぉ?」
「虐待って分かるぅ?」という、どこか間延びした言葉に頷く。確か自分達がされている行為も、それに当たるはずだ。
「おりこうさんねェ。そんな醜くて酷い人間から比べたら、坊や達の方がまだまともに見えるわよぅ?」
そうやって話す被験者の瞳はとても穏やかだ。
――この被験者は、どこか、違う。
そう思った自分は、思い切って聞いてみることにした。
「……怖く、ないのか?」
「ぜんっぜん。ここへ来るお客の方が怖いだわよ」
彼女はきゃらきゃらと笑って即答した。
こんなことは初めてだから、どうしたら良いのか分からない。
「ほら、おいでェ。どうせ行く宛てなんかないんでしょぉ?」
被験者はこちらへと手を伸ばす。
どういう意味だろう。手をとれということだろうか?
「大丈夫よぉ。坊やを養ってやるぐらいのお金はあるし、色々覚えてもらって働いてもらうって手もあるしねェ」
「坊や、育ったら美人さんになるわよぉ? きっとーぉ」と微笑んで言われる。その笑顔があまりに温かかったから、自分はそろりとその手を握った。
「よしよし、良い子ぉ♪ こんなに冷たくなってェ……ちゃんと生きてるのにねェ、坊やも」
――ちゃんと、生きている。
そう、自分はただ生きたいだけ。
何度も、目の前で同胞達が〝消されて〟いくのを見た。その度にあんな風に消えるのはごめんだと、今まで必死に生きて来た。
レプリカは死んだら残らないのだ。何も。ここにいたことさえ、綺麗に消えてしまう。
――それだけは嫌だった。嫌だと思ったからこそ、ここまで。
知らず頬を伝うものがあった。触れてみると濡れていた。何だろう、これは。
「それは〝涙〟っていうものよぉ。悲しいときとかぁ、嬉しいときに出るものなの。大丈夫よぅ、おかしいことなんてない。生きてるんだものぉ、涙だって出るわよぅ」
涙と言われたものは、止まることを知らないかのようにぽろぽろと流れ落ちていく。
それらを柔らかな布で拭き取りながら、被験者は続けて言う。
「坊やは名前あるのぉ?……ないなら、おねーさんが付けてあげるヮ♪ そうねェ……〝レピド〟とかどうかしらぁ。私が好きな宝石の名前なのよぉ」
「レピ……ド?」
「そう。石の色が、ちょうど坊やの髪の色みたいなのぉ♪ 今日からよろしくねェ、レピド」
――名前。
彼女から与えられたのは、生まれて初めての贈り物だった。
被験者は自分を立ち上がらせて店に入れようとする。そのとき、そういえばまだ被験者の名前を聞いていなかったことに気付く。
「あな……たの……」
「私ぃ? あらやだ、そういえば言ってなかったわねェ。私は〝マイカ〟。マイカよぉ」
「マイカ……。……よろ、しく」
それは、自分が初めて挨拶というものをした瞬間だった。