泣き方を初めて知ったラズリとそれに付き添うような形になったルークは、それから気が済むまで泣き続け、気付けば夜が明けていた。
のろのろと身体を起こして鏡を見ると、四つの目がウサギのように赤くなっており、二人で互いに顔を見合わせて笑う。
あれほど泣いたのに、心は軽くなっていることが不思議だった。
一頻《ひとしき》り笑ったところで、宿屋の主人に冷たいタオルと水をもらいに行く。
そこで二人の様相が酷いことになっていたのを心配したのだろう、主人に『具合でも悪いのか』と心配されたが、大丈夫だから気にしないで欲しい――するなという方が無理かもしれないが――と適当にあしらっておいた。
快く出してくれたそれを受け取ると再び部屋に戻り、良い具合に冷やされたタオルをそれぞれが目に当てる。泣き過ぎで火照る目に、ほど良い冷たさが心地良かった。
(誰かの前で、こんな風に泣いたのは初めてかも)
タオルを目に乗せたままルークはそう思う。
屋敷にいた使用人とガイの前では、わあわあと泣き喚いたことしかない。しかしそれは子供が起こす、生きるにおいて自然のものであり、物心付いたときにはすでにそういったことはしなくなっていた。
(懐かしい……)
あの金髪の青年が、慌てた様子で自分を何とか宥めようと奮闘している姿が浮かび、ルークはくすりと笑みを漏らした。
――リィン――
ふと、どこかで鈴の音が聞こえたと思えば、ルークがつい先程まで思い浮かべていた映像に急にノイズがかかり、そのままざわざわと意識がかき乱されていく。その独特の感覚は、ルークにとってすでに慣れ親しんでいるものだった。
覚えのあるそれに、慌ててルークは意識を集中する。
空気中に他の音素と混ざり合っていた特定の音素が、彼女の周りに集まるのが分かる。ある程度その特別な音素――第七音素が集まったあと、続けて聞こえて来たのはその音素の集合体の声。
『……久しいな、愛し子の片割れよ』
(ローレライ……)
ゆらゆらと揺らめく炎が、ルークの頭の中に浮かび上がった。
『何だ、あの服はもう脱いでしまったのか? 折角似合っていたものを』
(……のやろ! やっぱりワザとだったんだな……!?)
ぶるぶるとその拳が震えるが、ここで怒ってもしょうがないとルークはぐっと堪える。
それに、この存在がこうして連絡をとって来たということは、つまり――
(――〝ルーク〟の構築、終ったのか?)
『あぁ、無事にな。今はまだ隣ですやすやと眠りこけているが。……しかし人間というものは、こんなに複雑な表情で眠るものなのか?』
不思議そうに言われても、ルークはその場にいないので何とも言えない。
(複雑な表情? 変な夢でも見てるのかな)
ルークはそれが少しだけ気になったものの、夢にまで干渉するわけにはいかない。無事に構築が終わったのならそれで良い、と思い直した。
(下界へ降ろすのはいつになるんだ?)
『そうだな……次の満月の夜。タタル渓谷へと降ろそう』
『分かった、ありがとう』
意識の中で会話を終え、揺れる炎が静かに姿を消した。
――次の満月の夜。
今からだと一ヶ月後だ。
そしてその日は確か、ルークが〝ルキア〟として下界に降り立ってから、ちょうど一年が経つ日でもあった。
(すぐにここを発たないと間に合わないかもしれない)
――だが、その前にこのことをラズリに説明しなければ。
「どうかしたの? 急に黙り込んだかと思えば、そのまま百面相を始めるんだもの」
目に乗せていたタオルをはずすと、すでに傍らにラズリが立っていた。どうも目にタオルを乗せたまま表情を変えるルークが心配になって、様子を窺っていたらしい。
「……先、妙な感覚がしたわ。ちょうどあなたが黙り込んだときかしら……。引き寄せられるような……、何かに呼ばれているような……」
「一体何だったのかしら」と、彼女は不思議そうに首を傾げている。
それはきっとルークが第七音素を集めてローレライとの回線を繋げたからだろう。レプリカの全ては第七音素で出来ているので、そのときにラズリも引き寄せられてしまったのかもしれない。
その旨をラズリに説明すると、彼女は一瞬複雑そうな顔をしたが一応は納得してくれたようだ。
しかし逆に「ローレライとどんな話をしていたのか」と聞かれ、ルークは一瞬答えに詰まる。彼女に悪意はない。ただ純粋に気になっただけなのだろう。
――ちょうど良い。ここで話してしまおう。
少し考えた末に、そう決意した。
そして次の満月の夜に自分の被験者が帰って来る旨を話し、その上で自分はそこへ行きたいとルークは伝えた。
「遠くからで良い。会わないって決めてるけど、ちゃんと無事に帰って来るのかどうかだけは見届けたいんだ。ひょっとしたら見付かるかもしれないけど、それでも――」
――あの紅い髪の彼に会いたい。
ラズリには、これ以上隠し事をしたくなかった。
だから、彼女の口から「駄目だ」と言う答えが出ても、それは仕方がないことだとルークは覚悟する。
しかし、なかなか彼女からの返事がないことに業を煮やしたルークが恐る恐る顔を上げると、そこには優し気な微笑を浮べたラズリがいた。
「今まで魔物退治や救済活動ばかりだったし、たまには気晴らしでもしましょうか。……満月の夜に咲くというセレニアの花は、とても綺麗なんでしょう?」
「――っ! ありがとう、ラズ!」
予想に反する答えに嬉しくなり、ルークはラズリに全開の笑顔で答えた。すると何故か彼女の頬が赤く染まり、それを見たルークは既視感を覚える。
(そうだ、確か前にケセドニアの武器屋の店主も同じ状態に……)
ひょっとしてまた己が何かしたのだろうかと不安になってルークは彼女に気遣いの言葉を掛けたが、心配ないと言われて安心する。
「どうも……本人無自覚でやってるっていうのがね……」
「ん? 何か言ったか?」
「いえ、何でもないわ」
そう言って頭を抱えたまま「ルークは私が守らなければ……」と小さく呟いたラズリに、ルークはただ首を傾げることしか出来なかった。
それから互いの目の腫れが引いたところで、二人は早々に仕度を済ませて宿屋を出た。宿を出たあとは、タタル渓谷へ行くまでの食料や消耗品を購入するため、専門店に立ち寄る。
ルークは目に付いた商品を手に取って籠に入れながら、うきうきと心が弾むままにラズリに話し掛ける。
「何かこれって〝ピクニック〟っていうのか? そんな感じがするよな!」
「そうね。私も久し振りだから、楽しくなって来たわ」
店の人がそんな二人の様子を見て、くすくすと笑みを漏らしている。それに気付いた二人は少し気恥ずかしくなり、早々に買い物をすませる。
逸る気持ちを抑えきれず、先頭切って移動するルークをラズリの少し寂し気な表情が追い掛けていた。
そうしてグランコクマから出た二人は、順調に旅路を進んだ。
本来なら一気にタタル渓谷まで行きたいところだが、さすがにそれは無理がある。
(アルビオールだったら、こんな距離あっという間なんだけどな)
シェリダンにある空を飛ぶ音機関――アルビオール。金銀の髪をした兄妹は、今もあの大きな機体を操っているのだろうか?
そこまで考えてルークは静かに息をつく。
(今はそれを考えても仕方がない)
こうなったら、エンゲーブへ向かう馬車などを利用して、のんびり行こうと腹を括った。幸い食料はたんまりある。
ラズリが言ったように、たまにはこういうこと――ピクニック――があっても良いかもしれないなとルークは思った。
それから一ヶ月が経ち、ローレライが言っていた満月の夜がついに来た。
待ちに待ったこの日。遥か上に見える音譜帯では日数の流れ方が違うので、こちらで一月といっても、向こうではあっという間のことだろう。
――タタル渓谷。
旅の始まりも、ルークがルキアとなって下界から降りて来たときもここだった。確かあのときも満月で、セレニアの花も満開だった。
満月が昇るまでにはまだ間がある。それまでに隠れる場所を探そうと、ルークはラズリと手分けして見付かりにくく、かつ逃げやすい場所を探し始める。
顔を間近で見たいわけではない、遠くからで良い。生きて、動いている姿を見届けるだけで良いのだとルークは思う。
そうして少し経ったところで、ラズリがルークに「あそこはどうだ」と声を掛けて来た。
視線を向けると、彼女の指が滝の上を指している。成る程、あそこならばここら一帯を見渡せるし、早々に気付かれることもないだろう。
そう判断したルークは頷いて、手頃な足場を探して滝の上に上がる。ざあざあと落ちていく大きな水音は、こちらの物音と気配を良い具合に消してくれるだろう。それに見下ろすと、なかなかに良い景色だった。
「近くで見ても綺麗だけど、遠くから見ても綺麗ね」
「だろ? 好きなんだ、この花」
二人は座れる場所を探して腰を下ろし、ここからは花見と決め込んだ。
ラズリが荷物袋から手軽に摘める小さな菓子を取り出したので、二人でそれを摘む。食してみると、ぽりぽりという音と共にほんのりとした甘みが口内に広がる。菓子に舌鼓を打ちながら、満月が完全に空に昇るまでたわいもないことを話しながら時間を潰した。
月が昇り、そろそろだろうかとルークが思い始めたそのとき。渓谷へと踏み入れるいくつかの気配に気付いた。それにはラズリも気付いたようで、二人は気配を消して一体何者だろうかとそろそろと滝の下を覗き込む。
だが、そこに居たのはルークにとっては懐かしい、かつてルークと共に旅をした仲間達がいた。
「どうしてここに」とか、「どうして皆が一緒に」とか、他にも色々な考えがルークに浮かんだが、それよりも変わっているようで変わっていない彼らに思わず微笑む。
そして、影の中の一人が岩場にゆっくりと腰を掛けると、数分置かずにそれは聞こえた。
『……トゥエ レィ ズェ クロア リュオ トゥエ ズェ……』
――譜歌だ。
(これはティアの……)
かつて天才譜術師と呼ばれていた〝ユリア・ジュエ〟を先祖に持つ、亜麻色の髪の少女。その声が奏でているのは、かつてユリアがローレライと交わしたという契約の唄――大譜歌。
久し振りに聞くその透明な歌声に、旋律に、身体中の第七音素が喜んでいる。
「心地良い歌ね……」
それはルークの隣にいるラズリも同じだったらしい。
しかし彼らは知っているのだろうか?ここへ〝彼〟が帰って来ることを。
――いや、知らないからこそ来たのだろう。
だが逆にそれは、今も帰還を信じて待っていることを意味していた。
『レィ ヴァ ネゥ クロア トゥエ レィ レィ ……』
彼女が大譜歌を歌い終わると、続いて小さな話し声が聞こえて来た。ルークは耳を澄ませて、ぽつぽつと聞こえる言葉の破片を拾う。
『……成人の……』
『……墓……儀式……』
(墓……は何となく分かるけど、成人……ってなんだ、儀式? 成人の儀?)
――ということは。
「今日はどうやら〝ルーク〟の誕生日らしいわね」
ルークがそれに気付くよりも早く、察しの良いラズリからそう告げられた。
「そっか……だからか……」
(なかなか粋なことしてくれるじゃないか、ローレライ)
遥か上の方に鎮座しているであろう集合体を心の中で褒めたそのとき、ざわり、と周囲の空気が変わった。
崖下を見るとセレニアの花が揺れ動き、その花びらが雪のように舞い上がっている。
――還って、来る。
あの紅い髪をした〝彼〟が。
本物の〝ルーク・フォン・ファブレ〟が。