――さく、さく、さく。
草を踏みしめる音だけがその空間を支配している。
聞こえるのは風の音、木々の葉がこすれる音、そして、彼の心臓の音。
――あぁ……自分は生きている。
彼はぼんやりと実感した。
歩きながら顔の筋肉を動かす。街中で見た人間や、今までに彼と関わって来た人間達を真似して。
喜び、怒り、哀しみ、楽しみ、笑い。まず覚えたのは怒り、それから哀しみ。次に学ぶことが楽しいと思い、そしてそれを使えることが彼の喜びとなった。
ただ、それを表情として出すにはまだまだ違和感がある。だがそれも少しずつ自分のものとなっていく感触が彼にはあった。さらには表情が豊かになっていくことで、あの二人が言ったように彼自身がレプリカだと気付かれにくくなったのだ。
熱気溢れる街から移送されたのは、水が流れる都。
そこの人間達は、彼に知識と言葉を与えてくれた。そこでは今までのように暴力を受けることはなかったし、軽蔑されることもなかったけれど、それでもレプリカに対しての周囲の目は冷たかった。また、それに不平を言えるほどの自我を持ったレプリカがいなかったのも確かだった。
彼は歩きながら考える。
――もし自分達だけの国があったなら、どんなに良いだろう。
レプリカは多くは望まない。ただ人間達に怯えることなく、日々安穏と暮らしたいだけだ。
なのになぜそれが許されないのだろう。
――自分達の国を、作る。
彼の中でその言葉は魔法のように浸透していった。
◆ ◆ ◆
ここで話は少し遡る。
英雄の帰還を祝う盛大な宴の後、アッシュは仲間達を伴い両親にルークが生きていることを告げた。そしてルーク捜索のために尽力し、必ずここへ連れ戻ることを誓う。また、その場にいたジェイド、ガイ、ティア、アニスの四人も、マルクト帝国・ダアト・ユリアシティの各国も協力するように要請する旨を伝えた。
その言葉に賛同するように、ナタリアとファブレ公爵が言葉を紡ぐ。
「我がキムラスカ国もありとあらゆる手段を使い、ルーク捜索に向けて力を尽くすよう、お父様にお願いをしておきます」
「私からも常々頼んでおく」
二人は真剣な表情で周囲を見回し、それに伴うようにその場にいた全員が力強く頷いた。
それから一週間としない内に、世界中にルーク捜索のための包囲網が張り巡らされた。もちろんその捜索対象となっているルークとラズリの二人は、そのとばっちりを受けることとなる。
だが幸い、現在の髪と瞳の色とラズリの姿は目撃されていなかったため、それらを避けることは意外とたやすかった。しかし用心に用心を重ね、ルークは今まで統一していた染料を茶色から別の色に変えてみたり、ときには染めずに行動することもあった。またラズリ自身も、あるときは男、あるときは女というように変装をし、二人にとってせわしない状態が続いた。
そんな中、二人が助けたレプリカの一人から気になる情報を耳にする。何でも自我が目覚めたレプリカ達の一部が、レムの塔へと集まっているらしい。
――レムの塔。
そこはルークにとってあまり良い思い出がない場所ではあったが、障気がない今となってはレプリカ達があそこに集まる理由が思い当たらない。
一体何のために集まっているのか?
その理由を突き止めるために、二人はレムの塔を目指して移動を始めた。
話は戻り、アッシュが〝アッシュ・フォン・ファブレ〟と名乗るようになってから数ヶ月後。
ここはマルクト帝国の首都、グランコクマ。レプリカ保護施設がある国の一つである。
現皇帝は、僅か三十三歳で帝位についたというピオニー・ウパラ・マルクト九世。皇帝とは思えないほどの砕けた口調や、その自信に満ちた言動と態度、国民のことを第一に考える姿勢から、民からの信頼は厚いようだ。首都のグランコクマは〝流麗なる水上都市〟と呼ばれるほど美しい水の都で、都市全体が海の上に位置している。
皇帝がいる宮殿敷地内にある軍本部。その中に宛がわれている一角にその人物はいた。
世間からは〝皇帝の懐刀〟と呼ばれ、かつては〝死霊使い《ネクロマンサー》〟とも呼ばれていた赤い目の軍人、ジェイド・カーティス大佐。その実績からして望めば大将にもなれるはずの彼は、今だに大佐の地位に留まっていた。
きちんと整理整頓された執務室。だが目を凝らすと、たまに忍び込んで来る人物を防ぐための罠があちこちに設置されている。
件の人物――ジェイドは執務机の前に置かれている椅子に座り、彼には珍しく手元の書類を凝視していた。
ジェイドはあのあとすぐに自国へと戻り、早々に皇帝への謁見をすませ――面白そうだからどんどんやれと言われたので遠慮なく――、ルークを捕まえるための包囲網を張り巡らせた。――にもかかわらず、未だ〝それらしい人物〟の報告はされていない。
(……探し方がまずいのか、それともあちらの逃げ方がうまいのか。それとも根本的に〝何か〟が違っているのか――)
そう考え始めたとき、彼はあることに気付く。
ここ最近、グランコクマにあるレプリカ保護施設へと送られて来るレプリカの数が、以前と比べて大幅に増えているのだ。
ジェイドはすぐさまレプリカ保護施設での情報を集めることにし、その結果が今まさに彼の手元にある書類に表記されている。
ぺらぺらと大まかに書類をめくり、目当ての情報を見付けると彼の口角が上がった。どうやら望み通りの結果が記されていたらしい。
「さて……、忙しくなりそうですね」
眼鏡の向こうの目が楽しそうに細められ、笑みが浮かぶ。
もし今の彼の表情をルークとその仲間達が見たならば、きっと誰もが口を揃えてこう言うだろう。
――『うさんくさい』と。
その頃、キムラスカ国とダアトにいる者達の耳にも気になる情報が舞い込んでいた。
それは、レプリカ保護施設内にいるレプリカ達の間で、レプリカ救済活動に貢献している二人組の噂が立っているという。
街で、草原で、果ては暴力を振るわれているときにその二人組に会えたなら、必ずと言って良いほどレプリカ達を助けてくれるのだとか。
保護施設へと送られる間には、生活をするにおいての知識や言葉、何より感情というものを教えてくれるらしい。すでに二人に会えたことで、自我が芽生えたレプリカ達が何人もいるようだ。
その二人組は、レプリカ達に〝蒼焔の守り神〟と呼ばれていた。
アッシュ達はどうにもその二人組が引っかかり、グランコクマにいるジェイドに連絡をとる。返事はわりと早く返って来て、手紙には相変わらずの達筆でこう書かれていた。
【その二人組は、こちらの保護施設でもかなり有名なようですよ。さらにそれについて大変有力な情報を得たので、よろしければ近々グランコクマへとお越し頂けるとありがたいのですが】
その文面を見るや否や、アッシュとナタリアは公務の予定を調整し、早々にグランコクマへと向かった。それはダアトにいたティアとアニスも同じであった。
急ぎ船を飛ばして着いたグランコクマの港では、爽やかに笑みを零すガイと特有の笑みを貼り付けたジェイドが仲間を迎えに来てくれていた。
「おやおや皆さん。何もそんなに血相を変えてこなくとも、のんびり船旅を楽しんで来ればよろしかったでしょうに」
彼はにこにこと笑いながらそう言い放つ。
その相変わらずな笑顔に、遠路遥々船に乗って来た仲間は苦笑する他なかった。
――一人を除いては。
「のんびりしていられる場合か! 有力な情報を得たと、呼び出したのは貴様だろうが!」
「えぇ、確かに呼び出したのは私です。ですが、そんなに急かしたつもりはなかったのですよ」
ジェイドは口角を上げたまま「〝近々〟と書いてあったでしょう?」と人を食ったような笑みで話す。
拳を握り、ぶるぶると震え始めたアッシュをガイが嗜めようと口を開いた。
「まぁまぁ、アッシュ。これは旦那の挨拶みたいなもんだよ、気にするなって。皆も、よく来てくれたな」
その一触即発の空気を変えるようにガイが言う。
それにほっとしたのか、次々と女性陣が口を開いた。
「久し振りね、ガイ」
「ここはいつ来ても美しい都市ですわね」
「最近ずーっとダアトに篭り気味だったからねー。気晴らしになってちょうど良いかもー!」
それらの言葉に「そうかい」と爽やかに笑う青年に、彼女達の手が伸びる。
「けれど「ですが「でもーぉ」」」
――ぺたぺた。
その瞬間ガイの悲鳴が周辺に響いた。
「「「相変わらずこれは治ってない、のね」んですのね」んだねぇ」
ある意味でいつものやりとりを終えたあと、一同は足早にジェイドの執務室へと向かう。
そこへ行くまでに互いが持っている情報の交換を行った。やはり各国のレプリカ達の間で似たような噂が広まっているらしい。
だが、それを聞いたジェイドは「そうですか」と、一つ頷いただけだった。
「狭苦しいところで申し訳ないのですが」と、執務室へと案内され一同が揃う。
ジェイドは積まれている書類の中の一部を取り、アッシュへと渡した。
それにざっと目を通したアッシュはある一部分で目を止める。
「これは……!」
「それは我が国の首都、グランコクマにあるレプリカ保護施設で集めた情報の詳細です。現在保護されているレプリカ達から色々と話を聞かせてもらったのですが、誰に聞いても特定の人物が語られています」
その書類にはこう書いてあった。
【レプリカ救済活動を行う人物についての報告】
グランコクマレプリカ保護施設内にて、複数のレプリカから証言あり。
・レプリカに友好的である。
・レプリカ達の間ではかなり有名な二人組らしい。
・特徴的な色から〝蒼焔の守り神〟と呼ばれている。
・呼び名は、二人組の内一人は青い髪、もう一人は焔の瞳を持っていることから由来するらしい。
・二人組以外にも、傷付いたレプリカ達を自主的に治療して回る人物がいる。
・その人物は二人組の内の一人に酷似しており、現在我が国の保護施設に滞在中であるとのこと。
【報告は以上】
ジェイド以外の全員の顔が驚愕に染まる。
「ね? 有力な情報でしょう?」
にっこりと赤目の軍人が周囲を見た。続けて「有力も何も……」とガイが唸る。これは下手をすればあの朱い存在を捕まえることが出来るかもしれない、それぐらい重要な情報だった。
そして「ああ、ちなみに」とジェイドが続ける。
「レプリカを治療して回っている人物は、もうすぐこちらにいらっしゃいますよ」
え、とティアが口を開こうとしたそのとき。コンコンと控えめに執務室の扉をノックをする音が聞こえた。
ジェイドがそれに返事をすると、「お連れしました。どうぞ」と隣にいる誰かに声をかけながら兵士が扉を開く。
「……失礼、します」
そう言って、おずおずと入って来たのは、群青色の髪を持つ少し不安そうな表情の若い女性だった。