今だ閉じられている碧。
それを待ち続ける緑。
アルビオールがベルケンド付近にゆっくりと着地した。ノエルがなるべく振動を与えないようにと配慮をしてくれたのだろう。
アッシュはそのことに感謝をしながら、ルークを抱えてアルビオールを降りる。
ノエルはこのままグランコクマへ行ってジェイド達と合流するらしい。アッシュがよろしく伝えておいてくれと頼むと、彼女もまた、ルークを頼むと言って来た。
それに対してアッシュが頷き返すと、アルビオールはその場から飛び立っていった。
――音機関都市ベルケンド。
キムラスカ王国所有の音機関研究都市で、ルークの――そしてアッシュの父でもあるファブレ公爵の領地である。
研究施設を中心に街が発展していったせいで、観光を目的とした人が来ることは滅多にない。しかしアッシュは過去に、嫌というほどここに世話になった経緯があった。そしてそれは、彼の腕の中にいるルークも同じだった。
彼自身、今でも進んでここに近寄りたいとは思っていなかった。アッシュがそう思うほど、ここには苦い思い出しかないのだ。
アッシュは眉を顰めながらどうにか足を進めて街にあるレプリカ研究施設へと入ると、予め連絡がいっていたのかシュウが二人を出迎えた。彼と会うのはレムの塔内で行われた健康診断以来だった。
二人が入り口で簡単に挨拶をすませると、ルークは早々に担架に乗せられ、すぐさま検査室へと運ばれて行く。シュウによると、検査には数時間程度を要するようだ。
この分だとベルケンドにしばらく滞在することになるかもしれない。ならば検査の間に宿の手配をしておいた方が良いだろうと思ったアッシュは研究室をあとにした。
そうして彼が宿へと向かっていると、その途中で突然胸に付けられていた小型通信機が鳴った。アッシュはそういえば外すのを忘れていたなと思いながら通信機のスイッチを押す。
すると途端に通信機から賑やかな声が聞こえてきた。
『あーあー、こちらリド。アッシュ? 聞こえるー?』
アッシュがその声を聞いた瞬間、彼の中に疑問が浮かぶ。
確かあの軍人率いる一行は、ケテルブルクからグランコクマへと向かっているはずだ。ここからあの辺りまでは結構な距離がある。なのにどうして、この通信機から少年の声が届くのだろうか。
『へへー驚いた? これ僕の特別製だからさ! 広範囲で通信が可能なわけ』
――成る程。
それを聞いて納得したアッシュはもはやこの少年が作った物において、いちいち驚くことがなくなってしまっていた。
「――で、何の用だ?」
『いや、海上からのテストもかねて連絡とってみただけ。今マルクトの陸艦の上甲板』
陸艦の甲板ということは、彼らはグランコクマに向けて移動している最中なのだろうか。周りの声が聞こえないことから、どうやらリドだけがそこにいるようだ。今までの彼の行動から察するに、陸艦内を見学し終えて飽きて来たところでアッシュに連絡をとって来たのだろう。
『なかなか快適だよ。海の上ってのもさ』
「そうか。そっちはどうだ?」
『うん。無事モルダも収容したみたいだよ。想像してたのよりヒョロっこくてびっくりしたなぁ』
事前にリドから『被験者に対して興味がない』と聞いていたとはいえ、レプリカを消して回っていた男に対しても、まったく敵意がないその口振りにアッシュは少々拍子が抜けた。これが彼の長所なのかもしれないが。
『あぁ、そういえばその件についてジェイドが何か聞きたそうにしてたよ』
「だろうな」
『ま! グランコクマに着いたら、また連絡するよ』
『じゃあねー』と、リドは最後まで明るい口調のまま通信機を切った。
現在海の上――ということは、ちょうどルークの検査が終わるぐらいに向こうに着くかもしれない。
(モルダについて……か)
リドが伝えてきたジェイドが聞きたいことについては、アッシュには大体検討がついていた。
恐らくあの男がここに至るまでの動機と経緯だろう。動機としたものは、アッシュとモルダが対峙したときに交わした会話で大体把握が出来ていた。
全ての発端はクリス・サングレの死亡だ。その少女を死に至らしめた原因が、〝レプリカルーク〟が創られたせいだと思い込んだモルダ・エスパシオが、今回の騒動を引き起こしたのだ。
(しかし、奴の行動にはいくつか矛盾がある)
邪視を持った少女のレプリカを手元においていた理由は分かる。恐らく彼女の能力を利用するためだろう。
しかし合点がいかないのは、レプリカを憎み、除去しようと企んでおきながら、アジトにレプリカ研究室を作っていたこと。
そしてもう一つ引っかかっているのが、彼の言動と表情の変わり様だ。
あの男にはまだ何かがある。そして恐らくそれをルークが知っている。
(全てはあいつが目覚めてから、か――)
アッシュは一つ溜息をつくと、止めていた足を宿に向けた。
数時間後、宿を取り終わってレプリカ研究所内で待機をしていたアッシュの元に、カルテを持ったシュウが近付いて来た。ようやく検査が終わったらしい。
そのままルークが寝かされている部屋へと案内され、シュウから検査結果が告げられた。
「ルークさんの検査結果ですが、身体的外傷についてはまったく問題はありません。治療が迅速に行われたお陰でしょう」
アッシュがベッドの上のルークに視線を移すと、無残な姿となった服は脱がされており、代わりに研究所に備えてあった服を着せられていた。中途半端な箇所で斬られていた髪も、誰かが整えてくれたのだろうか、気にならない程度に揃えられている。
「音素振動数においても問題はないと思います。どういった経緯で女性体となったのかは私には分かりかねますが……。しかしそのお陰で、以前心配されていた大爆発現象も回避されるでしょう。ルークさんが女性体となったことで、お二人は完全同位体ではなくなったわけですから」
アッシュは大人しくシュウの話を聞き続ける。
「それよりも身に付けていた衣服と身体の状態から、暴力行為を受けていたと判断しました。その過ぎた暴力行為による心的外傷の方が心配です。今は目覚めるまで何とも言えませんが――」
言いにくそうに話を打ち切ったシュウは、立ち尽くしているアッシュに気を利かせたのか、「ルークさんが目覚めたら呼んで下さい」と声を掛けて足早に部屋から出て行った。それに対して小さく礼を言いながら見送ったアッシュは、ベッドの傍に備えてあった椅子に腰を掛ける。
――白いベッドの上に広がる朱。
その髪が以前よりも短くなっていることにアッシュは眉を潜める。彼とは違い、毛先に向かって色が抜けていく特徴的な髪。まるで夕焼けを見ているようだと、純粋に綺麗な色だとアッシュは思っていた。
彼の手が自然とそれに伸びる。
毛先を切り落とされたせいで、抜けるようなあの黄金色はもうない。アッシュはそれを残念に思ったが、こうなってしまっては仕方がない。髪よりも、この存在がここにいることの方が大事だった。
アッシュの手がルークの前髪へと移動し、瞼にかかっていたそれを優しく横へ払うと、隠されていた表情が露になる。
規則的にされる呼吸は穏やかだった。あんなことがあったなどと、信じられないような安らかな寝顔。
――早く目を覚まして欲しい。
――早くあの碧を見せて欲しい。
以前ならばこういった感情を持とうものなら、アッシュはすぐさま否定していた。しかし今となっては、彼はそれを抑えようとは思わなかった。
一度目は束の間の邂逅を果たしたものの、そのまま逃げられて。二度目は捕まえようと思ったら、〝リア〟の連中に攫われた。
――最初は腹が立っただけだった。
どうして自分に何も言わずに逃げたのかと。
勝手にいなくなって、必死で隠れて、しかも自分が宛がったはずの名は名乗らない。捕まえて、問いただして、つまらない理由なら殴ってやろうと、アッシュはただそう思っていただけだった。
――それが。
いつの間にか、あの朱を捕らえようと躍起になって。いつの間にか、あの碧で捕らえて欲しいと焦がれるようになって。いつの間にか、あの笑顔で笑って欲しいと思うようになった。抑えていたつもりが知らず仲間内で広まるほど、想いは外に溢れているようだ。
アッシュはそれを思い出して苦笑する。
「……〝ルーク〟……」
かつてはアッシュの名前だった。しかし今は目の前に横たわる存在の名だ。
ルークというたった三文字の言葉が、アッシュの大部分を占めている。それを奪われたと、アッシュは目の前の存在を憎んだ時期があったけれど、今ではそれも――……
「早く……目を覚ませ……」
目が覚めたら、話をしよう。あの時言えなかったことを、ゆっくり言葉に乗せてみよう。だから早く、その奥に隠されている碧を見せて欲しい。
アッシュはそう願いながら、祈るように目を伏せた。
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