――あれから。
ローレライから『聖なる焔の光《ルーク》が〝リア〟に捕らえられた』という通信があってから、数日が経っていた。
「アッシュ様。こちらの書類もお願い致します」
緊急事態であるというのにも関わらず、アッシュは屋敷の自室で公務の書類を片付けていた。
部屋の隅で控えている屋敷のメイド達は、いつもより多い彼の眉間の皺と醸し出される不機嫌さに怯え、一定の距離を保ったまま近寄ろうとしない。
アッシュは渡された書類にさっと目を通し、ペンを握ってそれにサインを書き込もうとするものの、ある程度書いたところでペンが握り締める圧力に耐え切れずに、『ベキッ』と変な音を立てて真っ二つに折れる。そうして折れたペンの数は、すでに片手を越えていた。
――どうにも集中出来ない。
これ以上は無理だと悟り、アッシュは折れたペンを机の上に置く。
(全部、あの眼鏡のせいだ……!)
ええいくそ、と彼は半ば八つ当たり気味に机の上で拳を握り締める。途端、部屋の中に立ち込める怒気に、いよいよメイド達の表情が真っ青になって来た。心なしか少し震えている者もいるようだ。
それにようやく気付いたアッシュは、そうさせてしまったことを申し訳なく思い「少し外に出ていてくれ」とメイド達に促した。彼女達はこの部屋に控えていることが執務であるため多少渋るかとも思ったが、余程彼が怖かったのか、その場に居たメイド全員は大人しく命令に従う。
扉が閉められてようやく人心地が付いたところで、アッシュは先日の会議室で交わされた会話を振り返り始めた。
――『ルークが捕まった』
「――何だと!?」
ローレライが語ったその信じられない内容に、アッシュは思わず声を上げた。周囲は物凄い剣幕で叫んだ彼に、一体何事かという視線を注いでいる。
アッシュはその視線に構うことなく、続けてローレライを問い詰める。
(それはどういうことだ!!)
『奴らは危険だ。我が同胞達を次々と消して回っている。急げ……奴らは……雪の降る街の奥深く……』
しかし何故かそこでぷつりと通信が途絶えてしまった。肝心なところで切られた通信にアッシュは「くそっ」と舌打ちをしながら、右手を額に置いた。事情を知らない者が今の彼を見れば、頭のおかしい奴だと思ったかもしれない。しかし幸いにもここには、事情を良く知っている者ばかりが集っていた。
その一部始終を見ていたガイが、「どうしたんだ」と聞いて来る。
「……ローレライが言って来た。あいつが、――ルークが〝リア〟の連中に捕まったらしい」
それを聞くなり、その場にいた全員が目を見開いた。
「それはそれは……相変わらず期待を裏切らない子ですねぇ」
隣でジェイドの乾いた笑いが響く。アッシュはそれに何かを感じ取り、笑っている軍人を睨み付ける。
「……おい眼鏡。貴様のことだから組織のアジトがケテルブルクのどこにあるかぐらい、もう調べ上げてんだろう?」
彼の押し殺すような問いかけに、ジェイドは眼鏡のブリッジを押し上げながら答えた。
「察しの良い子は嫌いじゃないですが、いかんせんその呼び名はやめて頂きたいですね。あぁ、失礼。焦っているんですよこれでも。彼らのやり口が気になるだけにね」
肩をすくめながら言ったその態度に、聞いた俺が馬鹿だったとアッシュは溜息をつく。
反応を示さなくなったローレライの鍵を特別製の鞘へと収め、一刻も早くルークの捜索へと向かうべく彼は席を立とうとした――が、立てない。
何故ならば、立とうとしたアッシュの腕を隣の軍人がしっかりと取り抑えているのだ。
「……何の真似だ」
「何のためにあなたを私の隣へ座らせたと思っているんです?」
「こうするためですよ♪」と、ジェイドはにっこりとうさんくさい笑みで、アッシュの腕を掴んだまま離さない。アッシュは拘束を解こうと何度も動かそうとするが、その笑みからは想像もつかないような力で抑え込まれていた。
「離せ!!」
「お断りします♪ ここで離してしまえば、あなたは若い衝動に身を任せた状態で現地へと赴き、向こうの動向など知りもしないまま突っ走るおつもりでしょう?」
「若っ――!?」
「しかしあなたは今やキムラスカ王国の重要な地位についている人物ですし、さらには〝世界の英雄〟の一人と言われる立場となっている方です。そんな大事な方を『はい、いってらっしゃい』と深く考えもせずに敵の本拠地に送り出してみなさい。責任を問われるのは私達です。こちらとしては、そんな得にもならない責任を追うのは真っ平御免なのでね。まぁ何か、深ーい考えがあって、そうするというのなら止めはしませんが」
ジェイドは笑みを保った状態で、にこやかに威嚇と牽制を放っていく。アッシュは反論しようと口を開こうとするが、言葉が出て来ない。この軍人が言うことが正しかったからだ。こういうときだからこそ、焦ってはいけない。
「――っ!!」
アッシュは切れそうな米神の血管を押さえながら、音を立てて椅子に座り直す。
そのあとで「これで良いんだろうが!」と悔し紛れに呟くと、ようやくジェイドは掴んでいた腕を解放する。
「ルークの救出に向かいたいと思っているのはあなただけではありません。それに、助けないというわけではなく、ただ今は〝そのときではない〟というだけのことです」
ジェイドはゆっくりと諭すように話す。いつの間にかその顔からは笑みが消えていた。
「ここで焦って行動するのは早計です。むやみやたらに行動し、それが原因で彼女の身に危険が及ぶ恐れもある。それに〝リア〟に捕まったからといって、彼女がすぐに消されることはないと思います。向こうの首領はここまでやる人物ですからね。彼がそんな短絡的な行動に出るとは思えない」
ジェイドはそこまで言って一旦言葉を切り、続いて気になっていたことを口にした。
「しかし――そうですね、ひょっとしたら〝リア〟は最初から〝ルーク〟を捕まえることを目的としていたのかもしれません。そうなると今回の騒動は、それを隠すための囮であった可能性があります」
彼は「あくまで私の憶測ですがね」と付け加えたものの、アッシュ自身もそれが正解のような気がしてならない。
――この組織、いや、それを総括している〝モルダ〟という男からは、計り知れない〝何か〟がある。
まだ何か裏にある。根付いている。でなければ、まとわりつくようなこの奇妙な感覚をどう説明するのだ。
それを振り払うようにアッシュは少し頭を振る。その間にもジェイドの説明は続いていた。
「とにかく現在必要なのは、〝リア〟に関する情報と、対策と、策略です。向こうがどう出るか分からない今は、ことを荒立てるわけにはいきません。すでに手はいくつか打ってあります。ただ、その結果が出るまでにはまだ時間がいる。
ですから、皆さんは今まで通りレプリカの街の建設を進めて下さい。その方が彼らを欺きやすい」
――時間が、いる。
それは仲間達にも言えることだった。今だ整理がついていない状態では、まともに動くことは出来ない。
ここは各自それぞれが冷静になって、事を考える必要があるだろう。
「後はそうですね――、ラズリ」
ラズリはゆっくりと、ジェイドの呼ぶ声に顔を上げる。
「これからあなたは、決して一人で行動するようなことは避けて下さい」
「ええ、分かっているわ。すでに向こうは〝蒼焔の守り神〟の存在を知っているのでしょうし」
現時点では、ルークだけを狙っているのか、ルークとラズリの二人を狙っているのかは判断がつかない。
しかしどちらにしろルークが捕まったということは、〝蒼焔の守り神〟の存在は敵視されていることは間違いない。となれば、その片割れであるラズリにも危険が及ぶ可能性があるということだ。
「そうです。〝蒼焔の守り神〟は、彼らとは真逆の活動をしていたことになりますからね。あなたも狙われかねない」
ラズリの隣で、ラピスが「そんなことはさせない」と意気込んでいる。その意気込みは立派なものだが、ラピスの腕でラズリを護衛させるのは少々荷が重い。
同じ事を考えていたらしいラズリがちらりと視線をずらすと、それに気付いたガイとアンバーが大丈夫だというように頷いた。二人が影から護衛をしてくれるのだろう、ラズリもそれに対して小さく頷き返していた。
「さて、一先ずここは解散としましょう。詳しいことが分かり次第、至急連絡するように致しますよ」
ジェイドが手を叩きながらそうまとめ、その場は解散となった。
あの場にいたアッシュは煮え切らない思いで一杯だった。
さらにそれを感じ取ったのか、にこやかな笑みを浮かべたままのジェイドに、「あなたはしばらく公務でも行うなどして、頭を冷やして下さいね♪」と言われて、現在に至るわけである。
(あの、くそ眼鏡――!!)
嫌味な台詞と同時にうさんくさい笑みが思い出され、彼は突如頭を掻き毟りたい衝動に駆られるが、そうしても無駄なことは分かっている。
――分かっているのだ。
現時点では様子を見た方が良いということも。その上で冷静に物事を進めなければならないことも。自分に余裕がなくなっていることも。何もかも全て。
――けれど。
それを上回るほどの感情がアッシュの心を支配する。
捕まったからといって、すぐに消されることはないと言われても、何もされないとは限らないだろう。自分以外の誰かが、あの朱を傷付けることだけは許せない。
――あれは、自分のモノだ。
自分から生まれ出でた、もう一人の自分だ。自分が知らない他人の手でそれが良い様にされるなどと、断じて許すことは出来ない。
彼はぎり、と奥歯を噛み締める。
もし、仮にルークをそんな目にあわせたら、唯では済まさない。
(――殺して、やる)
今はまだ見えない存在に対し、アッシュは最大限の殺気を送った。
そして、無自覚ながら彼は実感することとなる。
彼の中のほとんどが、あの朱の存在で埋め尽くされていることを。
そしてその想いが、独占欲と呼ばれるものだということを。