空気が冷たい。でもちょうど良い。
――『……起きろ』
やっぱケテルブルクは寒いよなぁ。ずっと雪降ってるし。
――『起きろ』
そういえばネフリーさんとか元気でやってんのかな。挨拶にいけなかったけど……
――『目を覚ませ!! 』
どこか遠くから聞こえた自分の声に、ルークはばち、と勢いよく目を開ける。
(あれ……? 俺……どうしたんだっけ……?)
ぱちぱちと瞬きを数回すると、その度に掠れていた彼女の記憶が鮮明になって来る。
(っそうだ! 俺〝リア〟の連中に――っ!!)
「捕まったんだ!」と覚醒した意識と共にルークが勢い良く顔を上げると、その振動で小さくジャラリと金属が擦れ合うような音が鳴った。
ルークが恐る恐る音の方向へ視線をやると、彼女の両手首は頭上でまとめられて拘束具で固定されている上に、その先には鎖が付けられていた。先程の音はこの鎖から発せられたものらしい。
(くそっ! やっぱりこういう状態かよ……!)
慌てた彼女は、今度は視線を下へと落とし、足元も確認する。そこでも手首ほどの拘束ではないにしろ、こちらもそれぞれの足首に拘束具がつけられ、壁からの弛んだ鎖がそこへと繋がれているのが視界に映り、ルークは目を見開く。試しにそれらを何度か押したり引いたりはしてみるものの、びくともしない。
(当然っちゃ当然か)
ルークは肩の力を抜きながら、それにしても、と視線を上げた。
(ここはどこだ?)
〝リア〟のアジト内だということは容易に想像は出来るが、部屋の様子がおかしいことに彼女は気付き、暗闇の中に浮かぶ僅かな光を頼りにして辺りを窺う。暗い室内にようやくルークの目が慣れ始めた頃、それらは見えて来た。
しかしその先にあったものは、ルークの予想を遥かに越えていた。暗闇から浮かび上がって来たものに、彼女から血の気が引いていく。
(あれは、確か……)
昔、ルークがあの屋敷に居たときのこと。ルークは興味本位で立ち入ることを禁じられていた書庫にこっそりと入ったことがあった。
そのときに難しそうな本が立ち並ぶ本棚の中から、ある一冊を何気なく手に取った。当時、知識を吸収することに飢えていたルークは、一体そこに何が書かれているのだろうと胸躍らせてそれを見たが、描かれている内容に気分が悪くなり、すぐさま本棚に戻した。
それらが今、彼女の目の前にこれでもかと言わんばかりに並べられていたのだ。
そこにあったのは、〝拷問道具〟と呼ばれるもの達。しかもその一つ一つがやけに使い古されていることが、なおのことルークの不安を煽る。ここで行われていたことを想像し、彼女の恐怖が頂点に達したそのとき。
――ガシャン。
「お――……わっ!!」
部屋の隅から小さな音がしたと思ったら、ルークの両腕を拘束していた鎖が緩んだ。緊張していた身体が重力に逆らうことなく腕と共に下に落ちる。
その思わぬ衝撃に彼女の両膝は耐えられず、そのまま床にべしゃりと尻餅をついた。外気に晒されていた床は冷たかった。
「――っ痛ぇ」
ルークは強かに打ちつけた腰をさすろうとするが、そうしようにも両手は拘束されたままだ。動かした腕からは、ジャラジャラと鎖が擦れ合う音が響いていた。
一体誰が――とルークが警戒しながら視線を上げると、そこには白髪の少女が立っていた。
「……カル、サ……」
カルサは手に水とスープが乗ったトレイを持っていた。ルークが床にへたり込んだのを目視で確認すると、静かに移動して座り込んだ彼女の傍にトレイを置く。そしてそのまま水差しからグラスへと水を注ぎ、それをルークの手に持たせた。
「何故」と、「どうして」が胸中を渦巻いていたが、喉の渇きに抗うことは出来ず、ルークは両手にグラスを持ったままそれを口にした。
こくりこくりと、冷えたそれらがルークの喉から胸の中心を満たしていく。
一息で飲み干したそれをカルサが取り、「まだ欲しいか?」とルークに聞く。彼女はそれを首を横に振ることで断った。
「ここ――っ!」
ここはどこだと言おうとした言葉がルークの喉に引っかかり、彼女は思いっきり咽《むせ》てしまう。飲み込んだ水分が喉に馴染む前に言葉を発したからだろう。
しかし言葉の先を感じ取ったのか、少女はルークの質問に答えた。
「ここは、我が主の〝城〟。お前達が言うアジトという場所だ」
淡々と答えるその様は、ケセドニアからケテルブルクへと連れて来るまでの、あのたどたどしい言葉遣いからは想像もつかなかった。本当に同じ人物なんだろうかと疑ってしまうほど。
今思えば、あれは演技だったのだろうとルークは思う――恐らく、自分をここへと誘導するための。
「何で……奴らと一緒にいるんだ? カルサは、俺と〝同じ存在〟――レプリカだろう?」
左目の斑色が幾度か瞬く。不思議な力を持つ右目は髪で隠されていた。
ルークは、そういえば奴らに捕まる前にこの赤い目で見られると身体の自由が利かなくなったことを思い出し、恐らく右目にはその目を見た者に対して強制する何らかの力があるのだろうと察しをつけた。ひょっとしたらケセドニアの路地裏でカルサを助けて視線を交わしたとき、すでに暗示の類《たぐい》を掛けられていたのかもしれない。
「私の全ては、主に忠誠を誓っていると言ったはず」
「主って……モルダのことか?」
こくり、と首を縦に振る様子はあのときと変わらないというのに。
「何で――何でだよ!? だってあいつらは俺達を、世界中のレプリカを消そうとしてるんだろ!?」
「どうしてそんな奴に――」とルークが言いかけたところで、彼女はこちらを見詰めるカルサの瞳の意味に気付いた。
――これは、この目は、どこかで見たことがある。
「私は主のために生まれ、主のために死に往く。主の意に背くことは、私の存在の死を意味する」
(あぁ、この目は――)
この目は、ルークにも覚えがあった。
あれは、全てが信じられなかったとき。ルークがそこにいないかのように扱われていた頃だ。そんな周囲の態度に諦めていたときに、ルークは一人の人物に盲信していた時期があった。
――己が師と呼んだ、人。
少なくともその人だけは、自分を個として扱ってくれたから。〝過去の自分〟と混同することなく、接してくれたから。
今思えば、それは当たり前のことだったのかもしれないけれど、とルークは心中で苦笑する。
「私には例え同胞殺しの烙印を押されたとて、譲れないものが、ある。それはお前にも分かるだろう?」
そうだ。自分はそれをよく知っている。師と呼んだその人に、結果的には利用されたとしても。
――でも、あの人がいなければ。
(俺はここにいなかった……)
そういう意味では、ルーク自身、まだ完全にあの人を憎めていないのかもしれない。いや、憎もうとすら思っていなかったのかもしれないと彼女は振り返る。
目の前にいる少女は、己が世界が全てその人で構成されていたときの自分だ。〝逆らえない〟のではなく、〝逆らう〟という概念が頭にないのだ。
――その人が全てだから。その人がいてくれるから、自分はそこにいられるのだと。
もうこれ以上の説得は無理だとルークは悟り、自然と下を向いてしまう。しかしそれでも、これだけは願わずにはいられない。
「カルサはそれで〝幸せ〟、なのか……?」
かつての自分と同じように、〝そう〟でなければならないと無理矢理言い聞かせているのではないだろうか?
ルークは下に向けていた視線をカルサの目線までゆっくりと上げる。しかしその先にあったものを見て、それ以上の言葉を掛けるのを止めた。
――笑って、いるのだ。
――幸せそうに。
それは良く見なければ分からないほどの、本当に、本当に僅かな笑みだけれど。
カルサはきっと、モルダが何を企んでいるのかを知った上で、それでも彼の役に立ちたいと思っているのだ。
(でも、その生き方は……とても)
――とても。
――悲しい。
「……私は、孤独だった」
静かな空間にぽつりと呟かれた言葉。
右手を髪で隠された目へと持っていきながら、カルサは話し始める。
「目覚めたときは、どこかの研究施設――だったと思う。そこにいた人間達からは、私に自我がないことを良いことに、毎日実験と称して色々なことをされていた。ときにはこの力のせいで、先の戦地へと連れ出されたこともある。……自我がないとはいえ、記憶には残るというのに」
語られる少女の過去に、ルークは苦痛の表情を浮かべる。された行為の苦しみを思えば、それは当然のことだろう。
「繰り返される実験とこの力を利用されることに怯え、部屋の隅で一人震えていたところを主に助けられた」
表情にはあまり出ていないが、そう語る瞳はとても穏やかだ。
「初めて、だった。主は私に色々なことを教えてくれた。この力の制御方法も、生きる意味も」
いつまで続くかも分からない過酷な日々。それら全てから助け出してくれた人。
ルークにも同じような経験があるだけに、もはや何も言うことはなかった。
「……主がやろうとしていることは知っている。だが、私はどんなに同胞達から罵られようと、蔑まれようと、恨まれようと、私が主から離れることは決してない。主が私の全て。主が私の〝生きる意味〟だ」
この少女は、相応の覚悟を持って己が立つ場所を決めているのだ。逆に言えばそれは、たった一つの居場所であり、拠りどころなのだろう。
ルークはそれを少し羨ましく思った。
「しかし、何故だろう。全てを主に捧げているというのに、同胞達に、お前に、生きていて欲しいという気持ちが私の中にある」
カルサの小さな手が、ルークの新緑色を放つ髪に伸びる。
「そしてお前をここから出してやりたいと、出会ったときのように、笑っていて欲しいと思う」
「何故だろうな」と不思議そうに言いながら、彼女の手の中を碧の髪が流れていく。それは恐らく、カルサの中の第七音素がルークや同胞達と無意識に反応しているのだ。
――呼び合い、引かれ合って。
その瞳が、悲しい。こんなにもこの少女は優しいのに、そこから救い出してやれない自分が悲しいとルークは嘆く。
焔色の瞳から一筋の涙が零れる。
泣けないであろう彼女の変わりに、ルークは静かに泣いた。